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めがね旦那の鍵概念<未練込みの決断>


<葛藤>の記事、読みました?

 先ほどは<葛藤>という概念を提出してみました。いかがだったでしょうか。納得できる部分と納得できない部分があったかと思います。本書の目的として「読者の教育哲学を活性化させる」というのがありますので、<葛藤>について納得できない部分を、是非言語化してみてください。さらに、できるならば、それをTwitterなどのSNSで発信してみてください。めがね旦那のアカウントにDMをくださるのも大歓迎です。言葉は発することで磨かれていきます。相手意識のある言葉の方が自分の言葉に誠実になれます。表現に気を使った方が自分の言葉になりやすいのです。

 次は<葛藤>という概念を受けて、それを教育実践に昇華していくための<未練込みの決断>という概念です。僕の中では<葛藤>と対になる概念が<未練込みの決断>です。

 <葛藤>というのは、なるほど概念としてはよくわかるけども実際にそれを意識して教育実践をしていくことは難しいのではないかと思われた方がいたら、それはまったくもって正解です。教師がいちいちウダウダと悩んでいたら、子どもたちも不安になってしまいますし、なによりも教師自身がクタクタになってしまいます。人間には身体があり、それは有限です。有限ということは、一部にそのエネルギーを多く割り振ってしまえば、残りの活動が疎かになってしまいます。だから、教師はいくら大切だからと言われたって、いつでもどこでも<葛藤>しているわけにはいかないのです。時にはズバッと決断する必要があるのです。それが<未練込みの決断>です。

相対主義

 相対主義という考え方があります。これは、わかりやすく言えば「すべてに良い面と悪い面があるのだから、何が良いかなんて一律に決められないよ」ということです。これは一見、視野の広い「大人な意見」に感じるかもしれませんが、言論の世界ではむしろ相対主義は「批判の道具」として使われてきました。つまり、価値の基準をズラして「白を黒に」、「黒を白に」することができるということです。

宿題について

 例えば、宿題という実践で考えてみましょう。ある人が「宿題は必要である。家庭学習の習慣を小学校のうちに身につけておかないと、中学以降に宿題が無くなったときに、子どもの学力が下がってしまう。」という意見を持っていたとします。それに対して「強制的な宿題を6年間も繰り返したところで、家庭学習の習慣は付かないし、そもそもドリル的な反復学習のような宿題は、子どもによって効果がマチマチであり、学力向上に寄与するかも怪しい。」と反論すると、「授業時間内が短いので、反復学習をさせる余裕がないから、宿題としてさせている」という意見が出てきて、さらに「時間が足りないのは、授業の組み立て方が悪いのだ」と反論されたとします。そもそも家庭側が「宿題を出してくれないと、子どもの学力が下がる」と思っているケースもあったりしますので、議論の論点はコロコロ変わり、宿題の価値も相対化(良い面と悪い面が提出される)されていきます。絶対的な正解が無い以上、ある実践Aは任意にいつでも批判することが可能であり、その場の議論の正当性は「より発言権をもつ人」の意見に収斂していくというのは、様々な場での会議でも見られる光景ですね。

 では、どうすれば良いのでしょうか。議論を積み重ねて、それぞれの納得できる解を見つけてもいいのですが、そんな時間は往々にしてありませんし、会議をしてもベテラン教員の意見に決まるならば、それとは反対意見の人の納得感は薄いものになり、実践へのモチベーションも下がることでしょう。そこで、<未練込みの決断>なのです。ある選択をするときに、「適切な解」を選び続けることは不可能である。そして、それを選ぶための時間と労力をかけられないときもある。だからこそ、「決断をする人」の「その決断」について、周りの外野はとやかく言わない、という前提条件のもとで、「決断する人」は、その決断について<未練込みの決断>をする。<葛藤>もあるし、決断内容について、納得しているわけでもない。でも、とりあえずは前に進めないといけない以上、どこかで決断をしないといけないわけです。だからこそ、その決断に、周りの人は「最大限の敬意」を払うべきであるという、これは倫理の話なのです。

決断には責任が伴う

 決断をする人には「責任」が伴います。だから、決断には<葛藤>も伴うのです。しかし、決断の持つ<葛藤>はまさに主体的に決断したからこその果実であり、それを得ることで、人は学んだり成長できたりするのであれば、これは単なる「自己責任論」ではなくて、教員の「資質能力開発」の文脈で捉えられるべき話ではないでしょうか。

 学校文化には「同僚性」というものがあります。これは教師が悩んだ時には同僚から助けてもらえるということを表しています。これは一見、学校文化の「素晴らしき特長」ということで語られがちですが、同時に良くない面もあります。それは「決断を他者に委ねる」という面です。小学校の教師というのは孤独な仕事だと感じます。特に「学級担任制」の場合、ほとんどの業務を学級担任一人でしないといけません。そして、仕事における決断のほとんどは「子どもに関すること」であり、それは「いま、ここ」で即断即決が求められることが多いのです。「ちょっと待ってね」が使えない中で、教師は<葛藤>をしながらも<未練込みの決断>をしていかないといけない。でも、同僚性に頼りがちな教師は、その決断の根拠を「学年主任」とかに求めてしまうのです。すると、決断の根拠が曖昧なままに、「見かけだけの決断」を繰り返すことになります。しかし、これは<葛藤>を伴う<未練込みの決断>とは似て非なるものです。

授業中の発言について

 例えば、「授業中は、子どもたちを静かにさせて、意見があるときには必ず挙手をさせる」という規律を大事にしている先生がいるとします。これ自体はよくある話で、僕も若手の頃にはよく言われました。しかし、一方で、その先生は「一部の子どもたちしか授業中に意見を言わない」という悩みも抱えることになりました。でも、これは当然の帰結なのです。それは普段から「授業に関係の無いことは話さないでね」と言い続けたからですね。そんなことを言われ続ければ、多くの子どもが取る生存戦略としては「黙る」になっても不思議ではありません。先生が進めたい授業の台本に沿った「適切な発言」をわざわざ挙手して自信をもって発言できる子どもなんて学級に五人もいれば多い方です。

 そこでこの問題をどうにかしないといけないと感じた先生には<葛藤>が生まれるのです。「授業中の静寂さを多少失っても、子どもたちが自由闊達に発言のできる雰囲気の授業の方が良いのではないか」という考えです。しかし、これをすぐに決断するには勇気がいります。学級担任は常に「学級の荒れ」という不安を抱えているからです。しかし、教師と子どもによる「一問一答」のような面白みに欠ける授業を脱却したい。そこで<未練込みの決断>が求められるのです。

 結果的には、その決断によって授業には一定の変化が生まれます。いつもは黙り込んでいる子どもたちが、授業中に「つぶやき」始めたのです。そのつぶやきを教師が取り上げて授業に取り込んでいくことで、「つぶやき」に価値づけがなされて、子どもたちはより一層「つぶやく」ようになり、授業が活性化していったのです。もちろん、良きことばかりではありません。以前に比べれば、授業が盛り上がりすぎて騒がしくなることも増えてしまいました。しかし、これはまだまだ発展途上の過渡期であり、<未練込みの決断>ができたこの先生は、これからも自身の<葛藤>を抱えながらも授業改善に主体的に取り組むことができるでしょう(この話のモデルが僕自身であることは内緒)。