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名著『街場の教育論』を読む①

皆さんなら、「自分の人生を変えた一冊」を選ぶとすれば、どの本を選びますか?僕は問答無用で、『街場の教育論』(内田樹著 ミシマ社)を選びます。僕はこの本に出会えたことで、教育を考えるときの解像度がグッと上がったと感じます。

内田樹先生のお考えに出会えたことで、自分自身の至らなさを知り、どうしていけばいいのかの指針を得たような気がします(まだまだウロウロしている未熟者ですが、ウロウロの方向性は感じています)。

ということで、今回はそんな名著『街場の教育論』に出てくる言葉から、教育について考えていきたいと思います。

まずは第1講に登場するこの言葉から。

教育は惰性の強い制度です。
だから、入力変化があってから、出力の変化が結果するまでに長い歳月がかかります。早くて数年、場合によっては十年、二十年。
(中略)
ですから、教育改革を語っている限り、政治家は失政を咎められる心配がありません。どれほど愚かな政策を提言しても、それが実証的に「愚かであった」ということを在任中に突きつけられる心配がない。ですから、あまり政策に自信のない政治家たちは好んでとりあえず「教育改革」を口にするのです。

『街場の教育論』 内田樹著 ミシマ社 2008 p10、11

この文章を読むだけで、この一冊の持つ「特殊性」は感じられると思います。

「教育改革」というのは、政治家だけでなく、校長や現場の教員や、あるいは「元教員」からも聞かれる言葉です。とても響きがよく「なんだかすごそう」と感じさせてくれる言葉ではありますが、その内実のほとんどは「実現不可能」もしくは「実現しても改革には程遠いもの」ですね。前者は納得しやすいとして、後者はどうでしょう。

例えば、「アクティブラーニング」について考えてみましょう。これは「教育改革」の文脈ではよく挙げられる言葉だとは思いますが、その理念としては「教師による権威の集中を打開して、子どもたちに主体的な学びをさせよう」ということでしょうが、内実は、戦後すぐの「這い回る経験主義」のようなものであり、「活動あって学びなし」のような学びも氾濫しています。

さらにこれは、「権力を教師から子どもに移した」だけで単なる「反転」であるという「構造上の問題」も抱えています。言い換えると、「教師は子どもの主体性に口を出せない」や「教師の想定内でしか、子どもたちは主体性を発揮できない」などの問題は放置されたままです。前者は「放任」であり教育ではありませんし、後者の児童の主体性は「教師への忖度」とも捉えられます。いずれも「改革」とは程遠いですね。学校教育における問題は放置されたままです。

そして、根本的な問題として、「教育は惰性が強い制度」なのです。
入力から出力までに数十年の歳月がかかってしまう。「ある教育」を受けた子どもたちが、社会に出て「形成者」として活躍して初めて「ある教育の効果の一部」が確認できるようなものです。少し大袈裟に言えば、その子どもが死にゆく間際に「あの時の教育は良かった」と回顧できれば、「ある教育」は「良い」とも言えます。

だから、「誰でも何とでも言える」のが「教育論議」である、という内田先生の提言が、本書の冒頭で掲げられている点に重要な意味があるのです。

政治家だけではありません。同じことは教育を論じるすべての立場の人間にも当てはまります。今ここで教育を語っている私たち自身にも。
私たちはこれから教育を論じるわけですけれど、その論の当否は少なくとも相当期間が立たないと検証できません。だから、私たちはこと教育に関しては、自説の誤りの責任を取るリスクを取らずに、言いたい放題に言うことができる。このことを、教育を論じるに当たっての「自戒」の言葉として最初に掲げておきたいと思います。

同書 p11

私の教育論は「自説の誤りの責任を取る」ことが難しい。この言葉を冒頭に述べる教育論を、本書以外に僕は知りません。多くの教育書は「自身の教育実践がいかに成功したか」は嬉々として述べても、自身の実践のもつ「誤りの部分」は描きません(編集者が止めるでしょうね)。

僕もいろいろと「派手な教育実践」について語りがちですが、そのリスクは負えていないです。あれだけ批判している「宿題」だって、仮に全国一斉に辞めてしまえば「学力低下」が各地で湧き上がるかもしれません。

そして、内田先生の思考はさらに先に進みます。「自説の誤りの責任を取るリスクを取ら」ない人間の教育論がどうなるのか、についてです。

自説の当否を検証されるリスク抜きで発言することが許される場合に、節度を保つことはたいへん困難です。「教育を語るとき私たちはつい過剰に断定的になる」。これが「教育は惰性の強い制度である」ということの第二の含意です。

同書 p11

Twitter上で、我々は、このような場面を何度も何度も見かけていますね。教育は「信念と信念のぶつかり合い」になりがちです。「信念」には「普遍的な根拠」は必要ありません。「私は信じる」という思いだけで十分です。それが信念です。だから、泥仕合になるのです。

例えば、「GIGAスクール構想」はその典型です。コロナ禍で一気に広がった「一人一台端末」ですが、これの「リスク」についての言説はかなり少ないと言えます。というか、現場ではほとんど聞かれなせん。「お金をかけているのだから、使え」の一辺倒です。しかし、十年後、「子どもたちの視力が大幅低下」という「今は見えないリスク」は、想像している以上にあるのかもしれません。もしくは、未来の人間は「思考の仕方が白か黒かのデジタルな思考である」とかね。