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授業のあいさつ

 


あいさつなしでも「切り替わる」子ども

 今回のテーマは「授業開始と終了のあいさつ」についてです。僕は自分の授業を始めるときに「あいさつ」をしていません。チャイムが鳴って、子どもたちがゾロゾロと運動場から帰ってきて、ある程度、子どもたちが戻ってきたのを確認したら、そのまま授業を開始します。

 それを見た別の先生から「めがね先生のクラスの子どもたちは授業への気持ちの切り替えができるのですか?」と聞かれることがありますが、僕の答えは「もちろんできています。子どもたちはしっかりと教室へ帰ってきているではありませんか。」です。

そもそも論としての「気持ちの切り替え」

 そもそも現場でよく聞かれる「気持ちの切り替え」とは一体、子どもたちのどんな様子を指しているのかが僕にはイマイチわかりません。人間は機械では無いので、スイッチのオン・オフのように気持ちを切り替えることはできません。きっちりと訓練された結果、そのように気持ちを切り替えることができる学級集団もあるかもしれませんが、想像するだけでなんだか気持ち悪いと感じてしまいます。

「遊び」と「学び」の切り替える必要性はあるのか

 さらに言えば、そもそも授業開始時に、子どもたちの気持ちを切り替える必要があるのでしょうか。僕は子どもたちの「学び」と「遊び」というのは不可分だと思っています。理科の実験なんて遊びの要素が多分に含まれています。体験的な学びを進めていきたいのならば、なおさら遊びの要素は必要でしょう。楽しくない学習活動で「能動的に学べ」なんてあまりに理不尽です。

要は「配分」なんです

 これらの考えの前提には「子どもは黙って授業を聞いておけ」という教師側の思いが見え隠れしてしまいます。しかし、このような授業スタイルは前時代的です。もちろん、一斉指導である講義スタイルの授業のすべてを否定しているわけではありません。僕だって「全員に伝えたいことがある場合」は講義形式の授業をします。しかし、その配分は少しずつ減らしていくべきではないでしょうか。僕は、「子どもたちの時間を頂いて話をしている」という感覚を持ってからは、授業時間の自分の喋りがぐっと減りました。

誰のための「あいさつ」ですか

 あいさつをさせている先生の中には「今のは揃っていない、やり直し」なんて指導をされたことがある方もいるかもしれませんが、あいさつを揃えることと、その時間の学習効果にどんな関係があるというのでしょうか。僕にはこれが「犬のしつけ」に思えて仕方ありません。先生から見える景色と、子どもたちからの景色は全然違います。先生が見たい景色のために何度もあいさつをさせられる子どもたちが不憫でなりません。