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明治初期の就学率の低迷

1872年(明治5年)の学制の公布から日本の近代学校教育制度は始まりました。しかし、明治初期の頃は、まだ「学校教育」というものが日本の人たちに受け入れられたわけではなく、その就学率も1875年(明治8年)には35.43%(『日本近代教育史辞典』より)と低迷していました。

その理由としては、以下のような点が考えられます。
①教育内容が日常生活のニーズに合ったものではない。
②就学年数が長い
③受益者負担による学費の徴収
④西欧文化への忌避

それぞれについて概観していきましょう。

「①教育内容が日常生活のニーズに合ったものではない」というのは、学制がその教育内容をアメリカを模範として設計されたため、教科書も西洋の教科書を翻訳したり模倣したものを使っていたことが挙げられます。例えば、国語教科書として利用されていたのはアメリカで普及されていた教科書である『ウィルソン・リーダー』ですが、その内容は「此猫を見よ 寝床の上に居れり これは、よき猫にはあらず」といった、直訳の文体で書かれ、挿絵も西洋的なものが使われています(詳しくは、以下の国立教育政策研究所のサイトにあります)。

その西洋的な教育内容は、教えている教師さえ理解することが困難であったと言われています。その証拠に、半年から一年で退学する者が後を絶たなかったことも挙げられます。これは、子どもの発達段階を無視した程度の高い内容を問う進級試験が課されて、多くの子どもが留年したためでした。


「②就学年数が長い」というのは、従来、寺子屋での勉学期間は通常1〜2年であったとされていますが、学制が設定した下等小学と上等小学はそれぞれ4年間で、合計8年間の勉学期間を求めます。これは、当時の社会慣行とはかけ離れたものでした。当時は家族労働に依存する小規模の農業従事者が多数を占めていたこともあり、子どもの就学による労働力の喪失という問題も大きかったことでしょう。


「③受益者負担による学費の徴収」というのは、学制の前文にあたる「被仰出書(おおせいだされしょ)」に根拠を持つ制度です。
「被仰出書」には主に4つのことが書かれています。
1、功利主義
 国家のためでなく、個人の立身出世や経済的な成功を目的として学問を修める
2、実学重視
 言葉の暗唱などではなく、生活や経済が豊かになるような学問の重視
3、国民皆就学
 人間である以上は学ばなくてはならず、すべての国民に学問が必要である
4、受益者負担
 これまでの学費等を官(国家)に依存してきたことは旧弊である

この中の4つ目の受益者負担という部分から、小学校設置に伴う費用は「民費」とされ、国庫負担金は地域差はあるものの、約10%程度と低く、残りの経費は地域の住民が担うことになりました。授業料は小学校で50銭とされましたが、これも当時の民衆の生活費の3分の1に相当するほど高額であったとされています。その他にも、学区内集金や半強制的な寄付金なども徴収されたそうです。

「④西欧文化への忌避」というのは、明治初期に起きた「学校破壊事件」を取り上げたい。森重雄著の『モダンのアンスタンス 教育のアルケオロジー』を参照しながら概観したいが、これは長くなるので、また次回ということで。

主な参考文献
『教育の理念・歴史』 田中智志・橋本美保 監修編著 一藝社 2013
『日本の教育経験』 国際協力機構(JICA) 2003