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現象学(フッサール)


フッサールはつまらない人?!

 次はフッサールです。フッサールはオーストリアの哲学者です。フライブルク大学で教えていましたが、ナチスが力をつけ出すとフッサール自身がユダヤ系であったことから、その職を解かれることになります。次章で扱うハイデガーを後継者として考えていましたが、考え方の違いから袂を分つことになります(ちなみに、ハイデガーはナチスに加担して、後にフライブルク大学の総長へと上り詰めます)。フッサール自身については、「面白味に欠ける人」という評価が多く、その講義も退屈で多くの学生が寝ていたという逸話もあります。以前、「他者論」で扱ったレヴィナスも、高齢になっていたフッサールと初めて会った時の回想として「学びへの意欲を失っていた」と厳しい評価をしていました。

現象学について

 フッサールは現象学という学問を打ち立てたことで有名です。では、現象学とはどういう考え方なのでしょうか。これは「客観的な真理なんて確かめようがないじゃないか」というところから出発します。これまで西洋哲学では「真理」なるものを追い求め続けてきたのですが、フッサールはそれを否定したわけです。でも、これには説得力があります。なぜなら、すでに我々は相対主義の持つ強さを体感してきたからです。「〇〇こそ真理である」という言説にはさまざまな立場から疑義を提出することは任意に可能なのです。

相対主義への現象学の解答

 では、現象学はこの相対主義にどう対抗したのでしょうか。それは、現象学が「それでも、我々は共通了解をすることができる」ということを見つけたからです。人は現に「良い教育とは何か」という問いに対してその「良い教育」のイメージを抱くことはできるし、それを言葉によって伝え合うこともできるのです。そして、このイメージ自体は決して「個別的」ではなくて、人と人との「相互了解」によって形作られているということなのです。つまり我々は、生まれてからここまで生きている中で、いろいろな他者と言葉や価値観を交わし合う中で「良い教育」へのイメージを作り上げていったわけです。それは決して個別的とは言えません。

「信憑」を抱かずにいられない

 そのように我々は、ある考えに対して「それは真理かもしれないな」という「信憑」を抱かずにはいられないという状態になることがある。これは、相手の主張を否定することを旨とする相対主義者にも言えることです。彼らは、その「信憑」を感じつつも、「相手との競争」に勝つために、その信憑から意図的に目を逸らしているだけなのです。「相手との競争」に勝つためには、「相手と共感する」とか「相手の主張に納得してしまう信憑」を抱いていることを感じられては困るわけですからね。

信憑からの共通了解

 そのような「信憑」は、相互の言葉のやり取りで伝え合うことができます。そうして「共通了解」をすることで、その「二人の間の主観(間主観性)」にある「主観的な真理」は共有することができる。「人類普遍の真理」は見つからないかもしれませんが、主観を伝え合い、そこへの「信憑」を感じれば、その「信憑を感じてしまうような真理」の輪は広がるのです。

現象学を教育の文脈で

 さて、ここまでの抽象的な話を教育の話に引き付けて考えてみましょう。「教育には正解が無い」というのは、「教育には真理が無い」ということですね。これは、たしかにそうなのでしょう。教育という営みには、様々な立場があり、立場によって見え方が異なります。「子どもを良い方向に導きたい」という教師の思いからの「叱責」は、子どもからすれば「ただの恐怖体験」になってしまうことはよくあります。教師同士という同じ立場であっても、「子どもの怠惰には叱責が必要」という考えと「叱責は権威への服従の気持ちは産んでも、主体性は育まない」という考えは、どちらにも支持者がいるでしょう。

共通了解の輪を広げる

 だから、すべての教師が良いと思えるような教育の真理を見つけることは難しいのでしょう。しかし、我々はそれでも「信憑」を心に抱かずにはいられないのでした。そして、その「信憑」を言葉によって伝え合うことで「共通了解」の輪を広げることもできるのです。

 例えば、現場で初めて働く新任の先生を思い浮かべてみましょう。右も左もわからない新任の先生は「自分の教育への価値観」にも当然自信が持てません。だから、現場の先輩の先生にいろいろ教えてもらうわけです。「忘れ物が多い児童には、初めの指導が肝心よ。甘い指導だと児童はつけあがるから、厳しくガツンと言って泣かしましょう。それを見て他の児童も忘れ物をしなくなるわよ」

 新任の先生はこのような指導を聞いて、はじめは「信憑」を感じることができませんでした。その管理的で高圧的な指導方針に、少し抵抗を覚えてしまったのです。そこで、その指導に逆らって、忘れ物をした児童に対して「次からは気をつけてね」と「甘い対応」をしてみました。すると、翌日も忘れ物をしてきて、さらに、その忘れ物は他の児童にも広がってしまいました。その事態を嗅ぎつけた他の先生からも、「忘れ物には毅然とした対応が必要ですよ。厳しくガツンと言いましょう。」と言われてしまったのです。そして、今回はそれを素直に聞いて、忘れ物にガツンと厳しく指導をしてみました。すると、次の日には何と忘れ物はゼロ。早速指導の効果を実感した新任の先生は、「自身の信憑」よりも、「現場の信憑」を信じるようになるのです。

 心に浮かぶ「信憑」は決して個別的なものではありません。特に教育のように「不確定要素が多い」事象には、周りの環境が個人の「信憑」に多大なる影響を与えます。

学校文化という信憑

 学校には、学校文化というものがあります。例えば、家庭環境に課題が多いような地域(低所得層の家庭が多い地域など)の学校では、教室が無秩序になりやすいという特徴があります。そのような学校では、毎年「学級崩壊」が起こったりしてしまいます。しかも、そういう「荒れた地域」というのは教員の間での噂としてすぐに広がるので、「異動希望者が来ない」こともよくあります。すると、「新しく採用された先生」で足りない教員分を賄うことになります。ただでさえ困難な状態の学校に、「新規採用の先生」たちが毎年のようにやってくる。彼ら彼女らのような新任の先生にも「学級担任」をお願いしないといけない状況になるわけです。4月1日に先生になったばかりの先生が、4月8日には「学級担任」として子どもたちの前に立つのですから、何かしらの対策が必要になってきます。そのままでは「学級崩壊まっしぐら」です。そこで「学校スタンダード」という考え方が広がっていきました。これは、学級の規則を事細かく明記しておいて、「先生たちが自分で考えなくても良くする」ための制度です。

例えば、
「ノートを書く時には下敷きを引きましょう」
「授業中に発言する時には挙手して先生に当てられてから話しましょう」
「授業中にトイレへ行ってはいけません」
「授業中にお茶を飲んではいけません。」
「休み時間にはトイレと水分補給を済ませておきましょう」

 これらの規則が細かく明文化されていますので、先生は子どもたちがこの規則から違反しないかを考えるだけでよくなります。これは、「不安な先生」からしたらありがたい制度ですね。「どうしたら良いかわからないときに、どうすれば良いかの規則が明文化されている」のですから。先生は子どもたちの中に規則の逸脱者がいないかを監視して、逸脱者がいれば指導すれば良い。

 そうして、これが実際に「目に見える効果」を上げることになるのです。いくつかの「荒れた学校」の「荒れが落ち着く」ということが噂として広がるのです。たしかに「管理より寛容が良い」というのは、多くの人が何となくわかっていても、その「寛容」を教育実践レベルで実現していくためには、高度な教育技術や、高度な信頼関係構築能力が必要であり、それを持たないまま「寛容」を実践しようとすると、先ほどの「甘い対応」の結果の忘れ物が続発という事態も容易にあり得てしまいます。子供達だって人間ですからね。先生の至らない点を突いてくるくらいの狡猾さはもっています。だから、ある程度までは「荒れ」に対しての「管理の徹底」には効果が出てきてしまうのです。

アメリカ発の「ゼロ・トレランス(寛容度ゼロ)」

 しかし、問題はここからです。もちろん、管理は教育ではありません。緊急事態に対しての「やむなしの措置」であるという前提が必要なのです。昔、アメリカで実践されたことで日本にも輸入された「ゼロ・トレランス(寛容度ゼロ)」という方針もありましたが、これは本場アメリカでは「その効果に疑問符」が付けられて、現在では見直しがなされているそうです。たしかに、日本でも「毅然とした対応」という言葉を好んで使う教員がいますが、このような「毅然とした対応」は「それでもできない」弱者に対しては非常に厳しい対応になりがちです。子どもたちは「やらない」というよりも「できない」ことの方が多かったりします。そして、厳しい規則はこの「それでもできない」子どもたちを追い詰めることになるのです。

 しかし、このような見直しが「荒れた学校」ではなされにくい。なぜならば、その学校で教員のキャリアをスタートさせた「新任の先生たち」は、その管理的教育実践の効果を感じ、さらに「信憑」さえ持っているからです。仕事のキャリアの序盤で作られた「信憑」というのはなかなか疑えないものです。だって、自分の価値観の土台となるのがキャリア序盤ですからね。その価値観をぶっ壊すことは、かなりの心的エネルギーを要します。さらに、自分と同じ「信憑」を同僚の先生も持っているわけです。これが、個人の信憑をさらに強くさせます。

 例えば、目の前の机の上にリンゴが置いてあるとします(哲学の話にはなぜかリンゴがよく登場します)。このリンゴは「たしかにリンゴ」という「信憑」をあなたに与えています。しかし、そこに、別の誰かがやってきて、そのリンゴを「ミカンだ」と言ったとします。さらに、別の誰かもやってきて「お、ミカンが置いてある」と続けます。すると、今度は、あなたの「信憑」に対する信頼が揺らいできませんか。このように「信憑」というのは、周りの環境によって揺らぐことも容易にあり得ます(では、結局、机の上の「それ」は何だったのでしょうね)。

 だから「学校を変える」人は「外部から到来」することが多いのでしょうね。「異動してきた校長先生」とか「立て直しを任された影響力のあるベテラン先生」とか。彼ら彼女らが、その学校の教職員の持つ「信憑」の束である「間主観的」な価値観を揺すぶるのです。

 そして、これは「外部からの到来」を待つだけではないことも示唆しています。そのヒントは、ここまでにも何度か述べている「書物」です。教師は自らの経験だけでは、良い教育を実践していくことは難しいでしょう。それは、教師の経験の価値を貶めているわけではなくて、経験の範囲が狭すぎるということです。教師自身が「経験の檻」から抜け出して、書物などから自ら学ぶことで、これまでの自分の「信憑」を打ち破っていくことで、その姿を見た同僚の「信憑」も揺さぶられ、あなたと同僚の間に「間主観的信憑」を築くことができるのです。そして、その二人の間にはたしかに「教育の真理」が存在しているというわけなのです。そして、その輪は二人以上にも広げることは可能なのです。