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教育目標への違和感


「目標」への違和感

 教育目標という言葉があります。学校単位では学校目標で、学級単位では学級目標になります。僕が勤める学校では、生活指導には生活目標があり、保健指導からは保健目標などもあります。僕はこの言葉を始めて聞いたときから違和感を感じていました。その違和感を言語化すると「全員が同じ目標を持つ」という点です。子どもによって「できること」も「考えられること」も大きく異なるのに、それらの子どもたち全員に対して「共通の目標」が設定されている。これがおかしいと感じていました。

教育目標の語源をご存知ですか

 教育学者の佐藤学氏によると、教育目標の語源は、工場で使われる生産目標だそうです。妙に納得してしまいました。工場の生産目標ならば話はわかります。当時の工場なら「時間当たりの生産量をいかに高めるか」ということを追求していたでしょう。そこの根底に流れる考えは「効率化」です。作業の無駄を省き、生産性を高めることのみに注力する。

 でも、当たり前ですが、教育は工場とは違います。同じものを、同じ材料と同じ工程で作り続ける工場に対して、教育は、全員が違う個性持つ子どもたちをそれぞれに育てていく。その育て方は、子どもによって違います。

・一斉指導で話が聞ける子
・個別の声かけが必要な子
・じっとしていることが難しい子
・周りの様子を気にして大人が求める通りに動ける子 などなど

 そこでの営みは工場でのそれとは大きく異なることは明らかです。しかし、工場で生まれた言葉を教育では使っている。使っているどころか、教育活動の中心に据えてさえいる。目標を持つことは何も悪いことでは無いという意見が根強いとは思います。人は目標があるからがんばれると、スポーツなどの成功者を事例に自論を展開される方もいることでしょう。たしかに、それが自分で設定した目標であるならば、それは弱気になった自分を鼓舞する力になるかもしれません。少し文学的な表現にするならば「未来の自分との約束」とでも言いましょうか。

 しかし、教育目標は決して子ども自身が設定したものではありません。どこかの誰か偉い人たちが話し合って決めた、崇高なる目標です。これは子どもたちの生身で生きている世界とはかけ離れている部分も多いでしょう。

学級目標ならいいのか

 というと、年度はじめに子どもたちで決めることが多い「学級目標」を例に出す先生もいるでしょう。学級目標というのは学級単位で、1年間に目指す姿を言語化したもので、多くの学級では、その決めた学級目標を黒板の上にでかでかと掲示していることも多いです。これならば、子どもたちで決めた目標だから、子どもたちへの効果もあるだろうと。
 では、40人で決めた目標は40人の子どもたち全員が「自分ごと」として意識できるでしょうか。僕はここに懐疑的です(だから、めがね旦那の学級では学級目標をつくっていません)。よくある学級目標の言葉を並べてみましょう。

「みんな なかよく げんきよく」
「えがおがいっぱい たすけあうクラス」
「最高学年としての姿を見せよう」

 これらを見て、これは目標では無いと感じた方はなかなか鋭いなと感じます。そうです。これは、目標ではなくてスローガンなのです。目標は達成できたかがチェックできることが多いです。一方、スローガンは「標語」とか「合言葉」という言葉が示す通り、印象に残りやすい短い言葉であり、目標のように達成度が確認しにくいです。目標とスローガンは、似ている言葉ではありますが、混同せずに使い分けたい言葉です。

 例えば、工場の生産目標であれば「1日の生産量を昨年度の○倍にする」などは達成できたのチェックが用意です。達成できれば、さらに高い目標を設定し、達成できなかったのならば、その理由を洗い出して次年度へ生かす。だから、目標には数値が用いられることが多いのです。過去との比較をするならば、数値が必要なことは明白です。

 「みんな なかよく げんきよく」を一学期と三学期で比べることができるでしょうか。子どもたちへアンケートを取ってもいいかもしれませんが、その結果は、先生がアンケート直前に、怒ったか誉めたかでも乱高下しそうな気がします。というか、1年間も過ごして「みんな なかよく げんきよく」が達成できないクラスというのは、一体、何をしてきたのかと、逆に不思議にも思えます。

 つまり、子どもたちで決める学級目標の多くは、40人で決めるからこそ、短く綺麗にまとまった言葉になってしまい、結果的にそれは目標ではなく合言葉的なスローガンになってしまう。しかも、短く綺麗にまとめているからこそ、誰にとっても「まあまあ当てはまる」ような「無難なもの」になりがちで、児童一人ひとりが自分ごととして捉えられるかと言えば、あやしいということになります(とはいっても、学級目標という教育活動自体はほとんどの学級で行われています)。

同じ教育を受けたって、子どもたちの姿は異なる

 話を教育目標に戻しましょう。教育目標の語源は工場における生産目標であるという話でした。これはつまり、子どもたちの「教育を受けた後の姿は想定できる」という考えに立脚しています。なぜならば、教育目標の多くは「子どもたちの姿」が記述してあるからです。

 しかし、繰り返しますが、教育は工場での営みとは異なります。同じ教育を受けた子どもたちが、みな同じような考え方を持つかと言えば、それは非現実的であることは容易に想像できます。子どもたちは同じ教育目標による教育を受けても、同じようには育ちません。しかし、それでは「教育目標」が達成できないではないかと考えた人たちが(そもそもできないのですが)、教育の途中で「チェックポイント」をつくろうと考えました。自分達が育てたいように子どもたちが育っているかを、ゴール地点だけではなく、中間地点でも確認しようということです。それが現在の「学習評価」です。

 「学習評価」は「目標」とセットになっています。「学習評価」を工場でのそれで考えるならば「点検」になるでしょう。製品が正しく作られているかをラインの途中で点検する。しかも、工場での製品とは異なり、その「点検」も簡単ではありません。なにしろ、子どもを「点検」するわけです。しかも、外見的なことではなく、内面的なものを「点検」するのです。

 「知識・技能」ならばある程度は測れるかもしれません。その精度や内容はとりあえず置いておいて、ペーパーテストを用いて、全員を同じ物差しで数値化することはできるでしょう。「平均点で○点以上を取らせる」など目標にもしやすいでしょう(それが適切な目標かはわかりませんが)。

 では「思考・判断・表現」はどうでしょうか。数値化は困難なことがわかります。これは子どもの内面の話です。内面を見ることはできないので、当然、子どもの外面的に現れた事象から想像していくしかありません。でも、外面的事象が内面的事象を必ずしも表せているかと聞かれればそれはあやしいことは明白です。勘がいい子どもならば、大人が要求しているとおりに振る舞うこともできます。

 さらに「主体的に学習に取り組む態度」はどうでしょうか。もう、それを評価することさえ憚られてしまいそうです。戦前の、教師が完全なる主観的に子どもたちを評価していた「絶対評価」の時代のそれと同じ臭いさえしてきます。

 もちろん、そうならないようにさまざまな方法が、さまざまな組織や人から提案されていることも申し添えておきます。しかし、根本となる教育目標が工場における生産目標であるのならば、やはり、どこまで上手に取り繕っても、工場におけるそれと同じなのではないだろうかと、僕はそんな危惧を振り払うことができないので