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喜怒哀楽のストレートさが小気味よく少し羨ましい 2020/04/05

今日も今日とて本を読む。大体自分の場合、60ページくらいでふぅっと一息ついて、100ページくらいで少し疲れたな、という感じになる。でも複数の本を並行で読んでいる場合、さて、では次のやつと切り替えていくと気分が変わって結構調子よく読める。という訳で、引きこもっていることを幸いに礒崎純一『龍彦親王航海記』とか阿久津隆『読書の日記』とかロジェ・カイヨワ『蛸』とかを切り替えつつ読んでいる。

で、「バベルの図書館 15 千一夜物語』を読了。こちらはバートン版。
絶世の美女に一目惚れしたり、歓喜したり、嘆いて気絶したり、喜怒哀楽のストレートさや、何かと出てくるものの物量が桁外れに多かったりする豊穣な世界。基本的に、自分に対して素直な人たちばかり出てくる。これだけわかりやすく、シンプルな感情表現には若干の羨ましさも感じる。


千一夜物語には、有名どころで3つのバージョン、訳者の名を取りガラン版、バートン版、マルドリュス版、というのがある。

「千一夜」アラビア語写本には、結末はなく、夜の数は282夜(およそ35話)だが、結局、ガランによる翻訳版(1704年~1717年)では、およそ480夜となった(234夜以降、夜の区切りなし。およそ60話)[6]。こうしてヨーロッパで、残りの物語探しが盛んになるにつれ、中東で聞き取った多くの物語等が無秩序に付加されて、ついに19世紀には現在の1001夜分を含む形での出版に至った。
Wikipedia

ヨーロッパに最初に千一夜物語を紹介したのがガラン版。性風俗に関する詳細な注がバートン版の特徴なのだけど、バベルの図書館では注が省かれていた。官能的で豊穣なマルドリュス版、旧仮名の岩波文庫全26巻が自分の千一夜体験なのだけど、こちらは今13巻に再編されて販売されている。さらに、岩波からはガラン版が刊行中。バートン版はちくま文庫で刊行されているので、メジャーな3バージョンが現代語訳で読める環境が整いつつある。学生の頃は旧仮名の岩波文庫の揃いを安く手に入れられる所を求めて神保町の古書店を回ったりしたものだけど、そんなのが嘘のような充実ぶり。またいつ手に入りづらくなるかわからないから、揃えておいたほうがいいのかな、などと思い始める。危険だ。

澁澤龍彦の伝記を読んでいたら、レーモン・クノー『聖グラングラン祭』を読んでいたという記述があり、あぁ、持ってるぞ、と。これも並行で読み始めた。

一人の人間と一匹のチーターだけがこの世に生き残ったところを想像してみる。気位たかい自由な仲間となって、どちらも地表を闊歩するだろう。きっとそうなるにちがいない。こんどは一人の人間と一匹の海老だけがなにか破局のようなもののあとまで生きのびたと仮定しよう。(中略)しばしの憩らぎを求めて血だらけの足を海にひたす。そこに海老がやってきて人間の足の親指を切ってしまう。もう叫ぶ習慣もなくしてしまった人間は、水の面に身をかがめ海老に向かって言う。「おれたちだけが荒廃したこの地上の生物なのだ、海老くん! 宇宙のたった二個の生きものであり、おれたちだけがすべてをおおう天災に立ちむかうことができるのだ。手をつながないかね、海老くん?」しかし尊大な動物は人間に殻をむけると、べつの大洋目指して去っていく。海老がなにを思っているのかわかるだろうか?
P.16

「いやいや、わかんねえよ」と突っ込みながら楽しく読む。
エビフライが食べたいな、海老くん!


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