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ステルラハイツ5479

 青色の絵は見る者を時空を超えた旅へと誘う。
 たまこは、ふと気付くと、不規則に凹凸した青の縞模様を目の奥でじっくりとなぞりながら時間を過ごしていることがある。青の向こうには、またここがあり、別のいつもを生きる自分がいる。そして、ふと旅から帰ると目の前にはいつもの日常があり、そこには手間のかかる愛しいものたちが待っている。

 今日はモトが東京から遊びにくると言っていた。開いているオレンジの部屋を使ってもらう。たまこは部屋の中を軽くチェックしてベッドのシーツを新しいものに替えると、スモーキーなお香を焚く。
 昨日まで逗留していたJINちゃんは、イタリアで出会ったミーコおばさんを訪ねて来たのが初めで、それ以来時々この部屋を常宿として、仕事で移動の途中や籠って作品を作りたい時にステルラハイツを訪れる。昨日からまたヴェネチアングラスのパーツを仕入れにイタリアへ飛び立った。入れ替わり立ち替わりゲストが訪れる。

 たまこは、ふきのとうが大好物だと、モトが何かの折に力説していたことを思い出して、散歩がてら外へ出る。ステルラハイツから10分ほども歩くと、周り一面田んぼに囲まれた見晴らしのよい場所に出る。
 このところは暖かくなったり寒くなったりを繰り返し、いよいよ彼岸が過ぎて、山からの風はまだ冷たくとも、もう土から立ち上る春の陽気があたり一帯を包み込んでいる。田んぼの畦道には、すでに董の立ったふきのとうがいくつか見られるが、腰を低くして見ると這った草や落ち葉の下からまさに今芽吹こうとしている黄緑色の蕾が顔を出している。これが食べ頃だ。根茎との境をポキリと折って、丸々とした蕾を籠に入れる。料理上手のミミ子が天ぷらにしてくれるだろう。
 山菜はキノコと一緒で、どうも人間に食べてもらおうとしているふしがある。わざわざ奥まったところを探さなくても、あるところにはある。たまこはそれらの群生と出会うのが得意だった。30分ほどの間に籠を8分盛りするほどのふきのとうを集めた。あるだけ採り切らないでおいておくのもそれらと親しむコツのひとつだと覚えた。

 たまこが家へ帰ると、起きて来たばかりのミミ子が流しの洗い物の山を片付けていた。ゆうべはまたミミ子の部屋で夜なべの麻雀大会が開かれていた。採って来たばかりのふきのとうを一粒籠から出して見せると、
「あたしの天ぷら、食べたことあったっけ?」
とミミ子は起き抜けの顔を得意気に輝かせた。時を変え品を変え、何度か聞いたことのあるミミ子のセリフは毎回期待を裏切らない。たまこは昨日お土産に貰ったばかりのコーヒー豆の袋を開けて、豆を挽き始める。湯を沸かし、カップを温め、コーヒーが仕上がる頃に、2階の紫の扉が開き、モクモクと立ちこめる煙の雲と一緒に一人の男が部屋から出てくる。
「オハヨウゴザイマスー」
 ワンさんと呼ばれているアジア人の男性がチャイナ服のようなパジャマを着てリビングへ下りてくる。コーヒー豆はコーヒー好きのワンさんからの沖縄土産だ。マッサージを生業にするワンさんは時々修行の旅に出る。今回は沖縄から来た。前回はバリから、その前はタイから来た。たまこはワンさんを広くアジア人と理解しているが、そういえば詳しい国籍は聞いたことがない。片言な日本語を使い口数は決して多くないけれど、マッサージの手技と同様に絶妙に人を安心させる間合いの持ち主だ。いつしか恒例となったミミ子の部屋での麻雀大会に必ず現れ、たいがい大負けも大勝ちもせずにニコニコと笑いながらそこに居て、眠ったら最後いつも誰が起きても目覚めやしないのに、こうしてたまこがコーヒーを入れると必ず起きてくる。謎の多い憎めない人だ。
「ワンさん、煙草臭いよ、シャワー浴びておいで。着替えは出しておくから」
 ミミ子はワンさんの世話を焼く。ワンさんだけではない、ミミ子主催の麻雀大会は多いときで月に2~3度開かれて、その度に現れる男性や女性の世話を焼くのがミミ子の仕事でもあった。「霊感の強い」ミミ子は育て親のオババから引き継いだ霊視の仕事をしていたが、ステルラハイツへ来てからそれまでのスタイルを変えて麻雀の出来る人だけを相手に、麻雀で仕事を済ませていると言う。それが具体的にどういうことなのか、たまこにはわからないが、「余計な言葉はいらない」というミミ子の言葉には理解を超える説得力があった。シャワーを浴びたワンさんは服を着替えて、コーヒーを啜りながらまた煙草を吸う。誰かがおいしそうに吸っているとつい煙をくゆらせたくなる。ミミ子とたまこも一口頂く。手巻きの煙草はひと口でも満喫できる。しばらくすると赤い扉の部屋からジャージ姿のダリアが眠い目をこすって出て来て、煙草の煙を鼻から吸うと、再びソファーに倒れ込む。

 昼を過ぎた頃にモトがやって来た。たまこは家の中の温度が少し上がったように感じる。ミミ子は少しだけ浮き足立つ。ダリアはいつの間にかジャージからワンピースに着替えている。

 うまくいくかどうかより今はこの気持ちを認められることがうれしい。モトから聞いたその言葉は、凝り固まったプライドや挫折感や、いらないものに覆われていたたまこに突破口をくれた。憧れの気持ちは陽だまりのようにたまこの心を今でも温めている。

 ミミ子はここへ来て何度目かにモトと鉢合わせして、ひと目で何かを深く感じ取ったのが、たまこにもわかった。ミミ子とモトはすぐに昔からの知り合いのようになった。ミミ子にとって、それは恋とは呼ばないのかもしれないけれど、受けて放つ光の変化は本人よりもシンプルだ。そしてミミ子は自分が思っているよりももっとコロコロと気性が変わりやすい質である。

 気性が変わりやすいのを体現しているのがダリアという女であった。そしてそれを自らも自覚している。初めから、モトのようにまぶしく光を放つ相手とは合わない、と言っていた。実際にモトとダリアが話しているとたまに空気が逆立つことがある。二人ともそれを察して滅多に言い合いはしない。それでいて、ステージに立つと二人は情熱的に絡み合う。それも一種の恋かもね、でも愛にはならない、とダリアは言った。

 ミミ子が自慢の腕を振るって、ふきのとうをからりと揚げる。小さな春の爆弾が口の中で炸裂する。モトがうまいと叫ぶ。ダリアは昇天する。ワンさんはウマイデスネーとニコニコ笑う。たまこはウンウンとうなずきながら、次から次へと口にする。ミミ子は得意気な顔で鼻の頭を光らせている。うららかな春の陽射しが窓から差し込む。壁に掲げられた青い絵の更に上で、高い窓に青く澄み渡る空の色が映っている。

 暗くなる前にたまこはまたひとり散歩に出る。近くの雑木林でストーブの焚き付けになる枝を拾う。春はもう確実にやって来ているが、梅雨が明けるまではまだ火を焚きたくなる日もある。それでなくても薪の手配には一年中気を使う。山や森を通る時、たまこの目は自然と薪になりそうな倒木や間伐材を見つけ出すようになった。それだけではない。木や草花の種類にもいつしか詳しくなった。いつの季節にどんな植物が芽を出すか、花を咲かすか、そんなことを気にするうちに一年は飽きる隙もなく過ぎていく。
 この街に住み、ステルラハイツに暮らすようになって、たまこは歳を取るのも忘れる位に忙しく日々を過ごしている。父には、たまこが実家にあまり帰らないという文句とともに「スローライフか」と半ば皮肉まじりに言われた。議論するよりも、ここで暮らせばやることはほかにいくらでもある。しかもそれらの暮らしごとは急いだところで能率が良くなるとも限らず、焦れば仕損なって手間が倍増することもあり、結局心を込めて丁寧にやっていくのが吉とわかれば必然としてスローにもなる。さらに、空模様や、肌で感じる気候の変化、植物や動物の伝える季節の移り変わりなど、都会ではあまり気にならないことに心を配るのもここでの仕事のうちであり、それに合わせて手を止めたり早めたりと、いわゆるスローライフとはゆっくりと忙しいが共存する暮らしを言うのだと思う。

 林の中ではコブシの大木が白い花を開かしていた。大きく手を開くように咲く花は、子どもの頃に描いた花の絵の典型のようで可愛いよね、こないだJINちゃんと散歩しながらそう話した時にはまだ満開にはなっていなかった。その時JINちゃんは、コブシの蕾は乾燥させると鼻炎や鼻づまりの薬になると教えてくれた。確かに小指の先みたいな形の蕾は鼻に詰めるのに持ってこいだと二人して笑った。JINちゃんとはいつもおばあちゃんの知恵袋から出したような話をしながらよく晴れたテラスでお茶をする。そういえばその時採ったコブシの毛羽立った蕾がテラスに干してある。早くも花粉症で鼻炎がつらいと言っていたダリアに効果のほどを試してみよう。日が下がって山からの風がまだまだと冷たく吹き下ろす。どこか遠くで消防車のサイレンが鳴っている。たまこは家路への足どりを少し早める。

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