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今この世を生きる誰かへ


こんにちわ。


これは、多くの人に向けて、その中の誰かに、お届けする話です。
あなたに読んでいただいて、光栄です。


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「身体内部感覚をとぎすます」

一番始めに言いますが、それこそ、今、個人そして人類が直面している様々な問題の、最もプライベートな側面であり、今まさに個々人の内側で起こっている出来事です。



わたしは、様々な支援のもとに、国から薬剤師の免状をいただき、医師より処方された医薬品を調合して、患者にお届けする職務に就いていたこともありますが、その頃より自らは医薬品をほとんど使用しません。

それはまず、わたしが有り難くも五体満足な身体をいただいたおかげでありますし、同時に、医薬品の成り立ちや仕組み、身体との相互作用などを学んだ者として、必要な時にはその助けを借りながらも、結局的に、それの管理下から脱して、身体環境内部にもともと備わった恒常性維持の理=ホメオスタシスにのっとって生きることがキモである、と知っているからですし、ただ個人的にそういった生き方を好んでいるからです。


(ここまでで、どういうことかピンと来ない方は、またいつかよろしければあらためてお話ししましょう。)


さて、結局的にその助けが要らなくなるのがキモ、というのは医薬品に限ったことではございません。

身体にいいという食品、サプリメント、漢方薬、ナチュラルメディスン、また、伝記や聖書などのためになる書物、宗教、人の言葉、もしくは人付き合いそのもの、など、広い意味での「くすり」を必要とする状態は、結果的に終わるのが自然な流れです。

今すぐに、と言っているわけではありません。

肉体はいずれ滅びて我々は死ぬ、というのとおなじように、いつかその時は来ますので、無理矢理そうしないといけないとか、それはできないとか、自分を責め立てる必要はありません。
「こうしなきゃいけない」
強すぎる思い込みは、いつでも、フレッシュな身体内部感覚を鈍らせます。


尚、個人の肉体の消滅後もなくならず、生き続ける意識があることを、わたしは受け入れますが、受け入れない方も、それ前提でなくてもこの後の話に支障はありませんので、もしよければそのままお読みください。



わたしの毒物学の教授は、初めての講義でこう言いました。


「外から身体の中に入ってくるものは、みんな、毒にもなり、薬にもなる」


要は、量であり、摂り方であり、からだしだい、ということです。

これは、万人に効く良薬はない、ということですし、煙草が誰をも肺がんのリスクに結びつけるわけではない、ということでもあります。
さらには、みんなにとっていい人もいませんし、みんなに悪いと言われる人も自分にとっては救世主、ということかもしれません。

要は、タイミングであり、付き合い方であり、自分次第、ということです。


それが、適当に見極められるようになることこそ、キモです。

キモ、とは肝心、腑に落ちている状態、「からだは全て知っている」。

病も薬もいらない日がやってきます。人類の進歩です。




現在、ヒトの遺伝子情報のほとんどが活用されてはいません。

わたしたちは、人類として長い進化の延長線上の、今一点の状態にありますが、遠く離れた次元のわたしたちヒトは、われわれにして未開の遺伝子情報を発現しており、現在のわたしの想像のはるかに追いつかない身体システムを機能させています。


つまり、今のわたしたち人間は、自分でも思ってもみない能力=超能力を、秘めた状態にある、ということです。

それではどうして、現在の人間は、無限大にも思える可能性のある、人類が遺伝子コード上に記録しながら受け継いできた、ヒトとしての機能を、多くの時間、眠らせているのでしょうか。

多くの時間、と言うのは、どんな人間でも、無意識のほんのわずかな時間、深淵で莫大なる叡智とのつながりを発現することができる、できているからです。

もちろん、意識的にそれを行うことも、できる。



全て知っている「からだ」の声をきくことは、その第一歩になります。


外部から「なにか」が身体の中に入ってくる時、からだは必ずマルかバツかのサインを出しています。
その表現や傾向は個人的なものです。
自分にしかわからない。
そのサインを受け取ることは、「なにか」を特定することよりも大切です。

例えば、食べたものがおいしいと唾液が一気に分泌される、とか、うれしいニュースで心拍が上がる、とか、びっくりすると産毛が逆立つ、とか、嫌な予感がすると鼻腔が乾く、とか、当たり前のようで特別なこと。
自分にしかわからない、表現や傾向を、誰かと共有する前に、独りで、よく感じて腑に落とすことは大切です。


好き嫌いしないで、
子どもの頃によく言われた気がしますが、自分だけ・今だけの好き嫌いは、その時に必要なものを選り分ける、大事な感覚です。
それを「なにか」に結びつけて固定しないことも、大事な選択です。
今の自分の状態次第で、「なにか」が、好いこともあれば、嫌いなこともあります。


日頃自然と行っている「なにか」についてのジャッジメントは、身体内部感覚に由来する、実はとてもプライベートな感覚で、ユニバーサルな善し悪し、というわけではないことに、気をつけてみます。



わたしたちの「からだ」は、常に、おのおのそれぞれの、身体内部感覚=からだの声と連なって、動こうとします。

直感に従うとは、その動きと調和することです。



落ち着いてみたら、あえて、不自由な環境に身を置いているような時ですら、それぞれが、自分に必要なことを、やっています。
トラブルや病、など、自分にとって望ましくない状態も、それを経験しながら、身体内部感覚をとぎすましています。
そして、肉体のレヴェルにおいても、新たで強力なenergy循環経路を獲得し、ホメオスタシスもアップデートされ、体力がつきます。



わたしたちは、人類として長い進化の延長線上の、ただ、今一点の状態にあります。

それは、取るに足らない一時点のようで、あらゆる進化の系統を内包した交差点に、なっています。

今、この世を生きる、おおぜいの中の、ひとり、ひとりは、点描画の中の一点のように、そこにあるべくしてある、状態にあります。

わたしひとりの生死は、人類の生死。

わたしひとりの呼吸は、人類の呼吸。

わたしひとりの進化は、人類の進化。

それと、それとは、立体的に関わっています。




身体内部感覚がとぎすまされていくと、ヒトはみんな、自分に与えられた能力を発揮するほかなくなっていきます。

混迷している、今この時期は、過ぎ去って振り返る頃には、人間の多くが、自分の生き方を発現して生き始める=ART、開花の時代と呼ばれることになります。




「なにか」によって殺されることはありません。
いつでも、自分によって、生きて死んでいきます。
そればかりは人まかせにできません。



ただそれだけ、

でした。


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