わたしがグジグジうだうだしていることは大抵すでに藤原基央が曲にしている
藤原基央さん、お誕生日おめでとうございます。何もかも、どうもありがとう。あなたがいつも言っている通り、わたしはもう毎日 BUMP OF CHICKEN を聴いているわけではありません。あなた方がすることなら何でも受け入れられるような、そういうファンでもありません。あなたたちなんかいなくたってわたしは生きてきたし、これからも生きてゆきます。だけどそれでも、わたしの人生に他の誰でもない藤原基央さんが、 BUMP OF CHICKEN がいてくれてよかったと、本気で思っています。それはきっと、これからも。
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24年って、途方もない長さだ。至極当たり前のことだけれど、0歳の人が24歳になるまでの長さで、生まれたての赤ちゃんが 高校を出たり大学を出たり専門学校を出たり職についたり、そのとちゅうで恋に落ちたりときには大切な人を失ったりして、 人生の前1/3を終えるぐらいの長さだ。
正直、これだけ言葉を並べてみても実際の24年間がどれぐらいの長さなのか全然ピンとこない。だってこれを書いているわたしは、22歳だ。
それだけの期間、ずっと同じメンバーで、一度も活動を休止することなく、誰ひとりソロ活動を始めるわけでもなく、連綿と続いてきたロックバンドがある。BUMP OF CHICKEN だ。
わたしが BUMP OF CHICKEN に抱いている感情は、「大好き」でもましてや「愛してる」でもなく、「信用」なのだと思う。
例えば、今年41歳になる彼らが、今でも16歳当時に作った曲『ガラスのブルース』を大切にしていて、ライブで胸を張って演奏すること。ふつう思春期ど真ん中の高校生時代に初めて作った曲なんて黒歴史みたいにならない!? これは冗談ではなく、きっと自分たちがやってきたことに対する矜持がなければできないことだ。
例えば、藤原基央(以下敬称略)がずっと同じことを歌い、ずっと同じことを語っていること。藤原基央はずっと、自分と他人は違うこと、いつか終わりが来ること、だからこそ今がすごく大切であることを歌っている。藤原基央はずっと、どのライブに行っても、「明日も明後日も君たちが僕らの音楽を聴いてくれる保証なんてない。でもときどき思い出してくれたら、そこには必ず僕らがいる」、「大勢の中のひとりって思ってるだろうけど、おれは君に歌ってるんだぜ!」、「僕たちの音楽は君たちが聴いて初めて生まれたことになる、僕たちに時間をくれてありがとう」、「みんながどんな明日を生きるか僕は知らない。でも、みんな今日の続きにいるんだだよ」、「君たちのひとりひとりが愛おしいです。どうもありがとう」って、言っている。
こんなバンドを、ソングライターを、どうやって信用するなと言うのだろう?
世の中には音楽が溢れていて、いろんな聴き方がある。わたしの音楽の聴き方は「信頼できる大人と出会って交流するために聴く」と「聞きたくない音を耳に入れないために聴く」の2種類で、やっぱり自分の人生に深く切り込んでくる音楽とBGMとは違う。これはどちらが良いとか悪いとかではなく、わたし個人の切実さとして、そうなのだ。
わたしは、彼らより真摯なバンドを知らない。彼らより真摯な人類を、知らない。
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自分の思春期についての記事を書いたとき、わたしはこのようなことを語った。
わたしにとって、大人になることはとても怖いことだった。9歳になったみたいに、17歳になったみたいに20歳になるだけなのに、それがどうしても恐ろしかった。何か取り返しのつかないことが起こっている気がした。でもどうしてか、大人になることを誰よりも恐れていたわたしに必要だったのは、「信頼できる大人」だった。
「家」と「学校」から遠く離れたところでいつでもわたしを待っていてくれて、有名か無名に関係なく「わたしのための作品だ」と思わせてくれる、そういう、切実で惜しむところがなくて悲しくてさみしくて、強い人たち。
そうやって自分だけの部屋をこの世界に確保してやっと、自分のこわばりを解いて、混乱に立ち向かうことができたのだった。
ここで言う「信頼できる大人」とは、まさに、藤原基央だったのだ。いや、「信頼できる大人」という概念を獲得する前から聴いているので、もしかしなくとも「信頼できる大人」の基準自体が彼に多大なる影響を受けている。卵が先か鶏が先か。藤くんが先だ。
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もちろん、近年の BUMP OF CHICKEN に何も思うところがないわけではない。固定化してしまったセットリスト、初音ミクとのコラボ、突然の自伝映画、転売のことなんて何も考えずにツアー最終日に会場限定で発売されたライブDVD。
気取らず、いつでも丸腰の、「へなちょこバンド」の彼らが好きだった。でも周りはそうは見てくれない。丸腰でいるには、大物になり過ぎてしまった。いろんなクリエイターに囲まれ、背負うものは増え、看板は重くなり、彼らのスタンスや想いは見えなくなってしまった。
それでも、ひとたびライブに行けば、彼らの芯に容易に触れてしまう。自分の柔らかいところに触れられてしまう。ステージの上の彼らはやっぱり真摯で、ちゃんと救われて帰ってきてしまう。
藤原基央さえいれば、楽器は打ち込みでも名曲になるとは思う。もしかしたら技術的にはそっちのほうが上手いかもしれない、でも絶対に、絶対にそうじゃない。 BUMP OF CHICKEN だからこそ、そういうバンドのフロントマンの彼だからこそ、歌える曲がたくさんある。だからわたしはやっぱり、再び彼らを信用してしまうのだ。
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22歳のいま、『天体観測』を22歳で、『jupiter』を23歳でリリースする人生を考える。自分とはまるっきり違う人生、違う心臓、違う生き物。
22歳の今日まで、親と分かり合えなかった、高校に行けなくなった、無敵だった日々が終わり、誰も自分のことを見ていないと思った。大学に入った、みんなが当たり前にできていることが自分だけできなかった、全員に怒っていた。死ぬのが怖くてたまらなかった、精一杯生きた、たくさんの文章を書いて、自分がどこで何をして生きるのか悩んだ。
そうしているうちに BUMP OF CHICKEN を毎日聴かなくなって、彼らの活動に違和感を持つことだって増えた。CDのフラゲだって、たぶんもうしない。
わたしは BUMP OF CHICKEN のファンじゃない、大好きじゃない。わたしが気軽に純粋に彼らを楽しめる時期は、もう過ぎてしまったから。もっと切実で、もっと重たくて、もっと柔らかい存在として彼らを抱きしめてしまうから。
年々彼らの曲に追いついてゆく。何万回と聴いた曲が何を言っているのか突然わかり、手のつけようもなくぼろぼろ泣いてしまう。
『イノセント』が、『涙のふるさと』が、『good friends』が、こんなに耳の痛い曲だったなんて、『ホリデイ』や『続・くだらない唄』が全然他人事じゃないだなんて、『彼女と星の椅子』がこんなに勇気をくれる曲だったなんて。
自他の区別、不自由のありがたさ、無常観、それでも生きてゆくこと、真摯にくよくよすること。
わたしがグジグジうだうだしていることは大抵すでに藤原基央が曲にしている。なぜなら彼も思春期を生き、22歳を生きたから。
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【連載予告】 わたしがグジグジうだうだしていることは大抵すでに藤原基央が曲にしている
ということで、365日不眠不休でグジグジうだうだしているわたしが、心から信頼する藤原基央さんと(勝手に)がっぷり組み合ってBUMP OF CHICKEN に「追いつく」連載が始まります。掲載はカルチャーを自分で知りにいく架空の飲食店メディア・フラスコ飯店。
発端はこのtweetたち。
書くことはわかることだから、自分について、そしてBUMP OF CHICKENの曲について書くことで、いままでぼんやりとしか見えなかった、だけどとても大事なことにきちんと形を与えたい。それがなんらかの奇跡によって、あなたにも届けば幸いです。
初回は『ディアマン』を扱うつもり。楽しみにしていてくれたらうれしいです。
(追記:連載ページへは↓画像をクリック!)