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今日の私は、 “贅沢な”悩みはないと伝えたい

11,480日目

贅沢な悩みなんですけど、と枕詞につける人がいる。


けれど、(自分に言い聞かせる意味も込めて)悩んでいることに贅沢も安っぽいもない、と言い切りたい!


この言葉の裏にどんな心理的な背景が潜んでいるかと考えると、比較だというところにたどり着く。

結局、目の前の人に比べて、もしくは世間一般に比べて、自分の悩みは悩みほどのものではないだろうという前提があるからこそ出てくる言葉。


たしかに現実には世界のどこか、日本のどこかでは、私が考えもつかないような苦しさ、しんどさを抱えている人はいるだろう。

明日の食べるものさえままならない状態が目の前に立ちはだかったときには、きっと今感じていることのほぼ全ての悩みが自分から吹き飛んでしまうことも想像できる。

でも、今、自分がしんどかったり、心を痛めたりしていることが事実としてあるのであれば、それは一つの悩みなのだ、と思う。誰にも取って代わることがない、悩み。


なぜ、私がこのことを伝えたいのか?

友人との会話の中で、この言葉を使っている人たちを見ると、彼、彼女たちは自分の悩みは他の人には伝わらない、と自分で抱え込んでしまう傾向があると感じるから。

そして、この言葉を盾のように自分を防衛するためにつけ、相手の人に共感してもらえなくても、理解されなくても傷つかない仕組みとしているように見える。

それだと何となく日常は過ごせるけれど、孤独感や虚無感を感じることがあるのではないか。

悩みを話せず、話せたとしても「贅沢で…」と遜(へりくだ)る関係性の中での自分。

「悩んでいることに贅沢も安っぽいもない、どれも悩み」「これは私の今の状態なんだ」と受け止めることができたとき、孤独感や虚無感は少し弱まるのではないか。

悩みは悩みで自身で受け止めてあげることの大切さ、痛みは痛みで撫でてあげることの大きさ。

そうしていくうちに「贅沢なんだけど」盾で守らずともありのままの自分で人と関わったり、相談したりことができるようになるのではないかな、と考えている。


中には一筋縄で受け止められないこともあるけれど、少し生きやすくなるヒントになれば。







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