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「黒田先生という人」

 小学校3年生のときの担任の先生は、ちょっと変わった感じの人だった。黒田先生といったが、フルネームは思い出せない。

 担任初日の挨拶で、こんなことを言った。

 「今日、学校から帰って、お父さんやお母さんに、今度の先生はどんな人だと説明したらいいだろう?」

 「男の先生」

 「そうだ。まず男の先生である。その次に何を言ったら良いか・・・。男の先生だけでは、どんな人かはわからない。
 私にはどんな特徴があるだろうか?
 よく観察してみよ。もしわからなければ、隣の3組の佐原先生と比べてみれば良い。黒田先生は、佐原先生より・・・」

 「背が高い」

 「それから?」

 「色が黒い」

 「そうだ。佐原先生は、色が白いが、私は黒い。背は高い方だ。男の先生で、背の高い色の黒い先生だ。まだ、それだけじゃ、お父さんやお母さんは良くわからないだろう。もうひとつ何かないか?」

 「・・・・・・」

 「そうか、気付かないか。それじゃ私から言おう。目が大きい。私は、学生時代ギョロ目というあだ名が付いていた。視力は右も左も2.0、きわめて良好だ。授業中には君たちの様子がよく見えるぞ。今日ウチに帰ったら、お父さんお母さんにこう言えばよい。色が黒くて背が高い目の大きい先生だ。」

 自意識の強い、分裂気質の人だった。

 画家、黒田清輝の名を何度か口にした。自分はその子孫だと言っていたような記憶がある。そういう血筋に誇りを持っていて、そのせいか、口調に独特の癖があった。

 「予は〇〇なるぞ、苦しゅうない、近こう寄れ」

 少しおどけたように、そんな口調で話すことがよくあった。

 歩きながら、ぶつぶつと独り言を言う癖があり、目じりにしわを寄せて喜色を浮かべていたかと思うと、逆に眉間にしわを寄せていたりと、喜怒哀楽が顔にはっきりと表れる。いつも中空を見ていて、周囲の様子にあまり関心が無いように見えた。

 「私は走るのは遅い。首が前に突き出たみっともないフォームで走る。しかし、歩くフォームは天下一品だ。これには誇りを持っている」

 繰り返し耳にした。頭が上下せず、足音を立てずにスムースに進む、無駄のない理想的な歩き方だと自慢していた。

 国語の時間には、朗読のイントネーションに細かくこだわった。

 「よくアクセントとが違うなどと言うが、正しくはイントネーションだぞ。日本語にはアクセントがほとんど無い。音の強弱ではなく高さ低さの違い、これをイントネーションと言う」

 イントネーションという言葉を、この先生によって初めて知った。ご自身、鹿児島弁のイントネーションでなく、標準語で話され、今の朗読は語尾がどうだったとか、〇○という単語は、正しくはこういうイントネーションだとか、批評することを楽しんでいた。
 種子島から転校してきた川枝君という男の子のイントネーションが、鹿児島弁より標準語に近いことを指摘し、真似すると良いとも言っていた。種子島で話される言葉は、薩摩弁とは大きく異なっており、お国言葉そのものだと、馴染みの無い耳には、意味がほとんど理解できないが、イントネーションだけだと鹿児島より東京に近く、語調もやさしく聞こえた。

 漢字の書き取りでは、字の形にこだわり、ノートに級を付けて返した。
 極端な右上がりは読みづらい。縦の線を垂直に、横の線を水平に書くと、○級までは行く。だがそこまでだ、などと、具体的な留意点をいくつかあげた。
 僕は毛筆習字の稽古に通っていて、それまでは右上がりの字を書いていたが、この先生の影響で、その字体が変化した。

 生徒が、マーチに合わせて行進するときは、自分が歩行フォームにこだわっているだけあって、生徒たちに盛んに注文を付けた。 
 自分にお鉢が回ってこなければ良いが、とびくびくしていたら、ついにターゲットになった。
 「足が曲がるぞ」と繰り返し言われ、その意味が解らず困った。歩くときに足が曲がるのは当たり前のことであり、その指摘だけでは、自分の歩き方がどのような状態なのか見当もつかなかった。
 友だちに歩く姿を見てもらい、なんと3年生にもなって歩く練習をしたのだった。

 体育の時間にも、やはりフォームにこだわった。体操の時はもちろんだが、短距離走のスタート、走り高跳びの助走の仕方、走り幅跳びの空中でのフォームなどに細かく注文を付けた。それは、記録を伸ばすためというより、フォームそのものが目標になっていたようだった。

 行進時の歩行では注文を付けられたが、体育の時間には、僕のフォームは黒田先生のお気に召すことが多く、皆の前に出され模範演技をすることもあった。
 足の速さは平均的で、6人が選ばれる学級リレーの選手に選ばれたことはなく、補欠というのが、ほぼ指定席のようになっていた。それなのに、スタートだけは良いからと、他の生徒と比較するために、3人が前に出された。

 横一線に並び、クラウチングスタートの構えに入った。
 先生が「よーい!」と声をあげると、一斉に腰を上げる。

 「ここでめどうは、頭がぐっと前に出るだろう」

 褒められるものだから、ええかっこしようと、いつもよりさらに前に突き出した。
 笛の合図でスタート。
 その途端、つんのめって体は宙を泳いでしまった。
 皆がどっと笑った。

 ― みっともないったらありゃしない ―

  すると黒田先生、

 「今は失敗してしまったが、いつものめどう君のスタートは非常に良い。めどう君の頭が前に出ると言うことが、今見ていてわかっただろう」

 それを聞いて、皆は果たして何を学んだだろう?

 足の速い古園君が、あとでこっそりこう言った。

 「あれは、前に出過ぎだよ」

 走り幅跳びの授業の時は、踏み込みの強さより、助走の歩幅の配分と、空中でのフォームに焦点が絞られた。
 僕は、体をよく反らしたので、このときも皆の前で跳躍することになった。それで、実際の跳躍距離はどうだったか? 確か平凡だったな・・・。
 その後進級し、新しいクラスでもその跳び方をしたところ、周りの生徒に「カッコばっかり」と笑われた。
 その他、ラジオ体操、走高跳の授業などで、フォームにこだわる黒田先生から気に入られ、皆の前で模範演技している。いつも、単なる「演技」でしかなかったが・・・。
 この先生、ご自身が運動神経が鈍かっただけあって、体育の授業では焦点がズレまくっていたが、ドッジボールのクラスマッチなどでは、緻密で論理的な作戦が功を奏した。
 稲垣君という速い球を投げる男の子がいた。彼の投球で相手チームを攪乱し、その直後、球質の思い古園君の球を決め球とする。その戦法を軸にして選手の配置とパスのルートを決めた。

 「稲垣は、古園に向かって全力で投げろ。古園だったら絶対捕れるから遠慮するな」

 素早いパスワークは、相手チームを恐怖におとしいれ、絶大なる効果を発揮した。チーム全体に勝ちムードがみなぎり、その結果、当然のように優勝した。

 算数の授業では、教科書に載っていない計算方法を教えてくれた。その他にも、この先生の発言にはユニークなものが多かった。

 「怠け者が役に立たないとは限らないのだぞよ。怠けるために人は発明するんだ。何とか怠ける方法はないものかと工夫するのも必要なことだ」
 多くの先生が言うように「結果がすべてではない。努力することこそが大切だ」とは言わなかった。

 「細工は流々仕上がを御覧じろと言うだろう。細工は流々、仕上げは失敗、ではしょうがないのだぞ。石橋をたたいて渡るというが、叩くことばかりに夢中になっていてはいかん。何のための努力か、何のために用心し準備しているのかを忘れてはいかんのだぞ」

 努力そのものより、ちょっと変わった発想や工夫、発見を、この先生は喜んだ。

 毎日日記を書いて提出することになっていたが、ある日、焚火をした折、赤い炎の他に青や緑の炎が出ていたと気づいたことを書いた。
 いつもは検印のみで返却されるのに、その日だけ、数行の所見が書き添えられていた。

 ― 面白いことに気付いた。燃える材料や温度によって、様々な色の炎が出る。その他の色の炎も存在するから、今後も注意して物事を見る観察力を持ち続けるように ―

 大体、そのようなことが書かれていた。

 図画工作の時間に、皆が吊り橋ばかりを作るものだから、甲突川に架かる西田橋が歴史的価値のある橋であることを説き、身近にある価値あるものにも目を向けるようにとうながした。

 子ども心に最も嬉しかったのは、漫画に興味を示したこと。生徒に漫画本を持って来させ、どの漫画家の絵が上手いとか、そうでないとか、独自の見解を述べた。
 『鉄腕アトム』の手塚治虫と『鉄人28号』の横山光輝がお気に入りで、その2つが掲載されていた月刊誌『少年』が推薦書だった。目の描き方、洋服のシワの描き方、光沢の描き方、擬音や動きを表すための線の描き方など、批評は細かく具体的だった。
 ただ、『少年マガジン』に掲載されていた『エイトマン』の桑田次郎の絵が、テレビアニメより下手だという批評には全く納得できなかった。桑田の描く繊細な画風は憧れの的だったから・・・。

 ― それだけは、絶対先生が間違っているよ ―

 揺るぎない確信を持って、僕はそう思った。
 その頃、自分は漫画家になりたいと思っていた。小学校の卒業記念アルバムにも、中学1年のとき、将来のことを綴った作文にもそのことを書いた。
 コマ割りの漫画を最初に描いたのは、小学校4年の時だったが、この先生の存在が間接的に影響していたかも知れない。

 細かいところに執拗にこだわる所があり、授業中に生徒が答えられないでいると、たとえ間違っていても何かひと言発するようにと要求した。

 東京オリンピックが終了した時、生徒各自に感想を述べさせたことがあって、順番にひとりずつ立って発言していたが、その流れを止めた女の子がいた。

 立ち上がったものの何も言葉が出てこない。

 「どんな小さなことでも良い。ただ一言で良いので何か言うように」

 普通の口調でそう言ったが、それでも、ただ黙ったまま時間が過ぎて行く。
 先生もまた黙って、言葉を待っている。

  「何も感じなかったということはないだろう」

 次第に、先生もじれ始め、表情に変化が表れた。
 
 「なぜ黙っている。何かひと言言え!」

 その子が逆らっているわけではないことは、周囲の子どもたちも解った。理由はわからないが、いつもは普通に受け答えする子なのに、そのときだけは全身固まったまま言葉が出ない。ついには、うつむいた頬に涙が伝った。

 それでも先生は容赦しなかった。

 ついに、その女の子は両手で顔を覆い、しゃくりあげながらの涙声を振り絞った。

 「水泳の最後で・・・、

  男子のリレーで・・・

 メダルが取れて、嬉しかったです」

 ようやくそう言い切ると、即座に着席し、机に突っ伏して泣き声を押し殺していた。

 教室全体が、気まずい沈黙に包まれていた。

 生徒の頭を叩く姿をたびたび目にしたが、激怒して見開かれた目に狂気の片りんさえ感じることもあった。

 その当時、あまり詳しい事情までは分からないが、先生方の間での飲み会もしばしば行われていたような記憶がある。酔っぱらった黒田先生が、夜、ある生徒の家を訪ねてきたという噂が流れた。

 「そんなことが表沙汰になったらクビになるんじゃないの?」

 そんなことをささやく生徒もいた。

 「なんで〇〇さんのウチだけに行ったんだろう? 〇〇さんのことが好きなんだろうか?」

 などと、勝手な想像を楽しむ子もいた。

 果たして本当なのだろうかと半信半疑で居たら、先生はついに自分のウチにもやってきた。

 「予は〇〇なるぞ、苦しゅうない、〇〇・・・、〇〇・・・」

 ロレツの回らない口調で、何かを言っているのが、隣の部屋まで聞こえてきた。

 父が、
「そうですか、ああ、そうですか」
 などと、困惑しながら対応している様子が伝わって来た。

 そのうち、先生は満足気な顔で去って行った。

 「先生は何て言ってたの?」

 「もう、酔っぱらっていて、何を言っているのかさっぱりわからん!」

 父は呆れ果ててていた。

 翌朝の生徒同士のデータ交換によると、その後、さらに2,3件訪問したようだが、そのことが、その後問題になったという話は聞かなかった。

 あの夜のように、上機嫌で生徒の家を訪ねては、しばらくわけの解らないことを口走り、そして姿を消す。たぶん、いつもそれだけで、絡んだり暴れたりすることはなかったんだろう。
 でも・・・、
 あれだけ酔っていたら、ご本人は、この一連の家庭訪問について何も覚えていらっしゃらないのではないかな?

 こうやって思い出してみると、かなり変わった先生だったし、それを問題にしない世間も実におおらかなものだった。

 3年から4年に進級するとき、クラスはそのまま持ち上がりで、担任の先生もそのままだった。それを知らされたときは、正直言って憂鬱だった。
 怒ると容赦なく繰り出される平手打ちから逃れたかった。
 それでも、ユニークな視点を持っていた面白い先生としての印象も強い。

 それから何十年も経って、邂逅した同級生が、この先生について口にしたが、面白い先生だったと好意的に語っていた。

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忘れられない先生

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