見出し画像

咲がらを切る

 赤い光が窓から差し込む。
 隣を走るトラックのテールランプが、私の乗ったタクシーを追い越していく。
「はぁ」
 タクシーに乗ってから三度目のため息をつく。
 これで良かったんだと、今日だけで二十回も言い聞かせている。
「お姉さん、えらい元気無さそうですね。大丈夫ですか」
 ミラー越しに運転手のお兄さんが話しかけてきた。まあ、そりゃそうだよね。化粧っ気のない三十路女性が十分間で三回もため息をついていたら、引くか心配するか、だいたいどっちかだ。
「ええ、すみません。大丈夫です」
 しまった。油断して半端な関西弁で答えてしまった。
「ほんなら、ええんですけど。お姉さんが帰るときも、僕の車に乗ってくれはったら嬉しいです」
 私のエセ関西弁にもため息の事情にも踏み込まず、でも、そっと自死をけん制してくるような物言いがなかなか優しい。きっと彼女にも優しいんだろうな。もしかしたら結婚してこどももいるかもしれないぞ。白い手袋のせいで指輪が見えないのが、なぜかもどかしい。でも、この運転手と特別な関係になりたいとは、微塵も思わない。無愛想な態度と裏腹に、腹の内ではごちゃごちゃ言っている。
 タクシーの運転手とのやり取りだけで、こんなにぎこちないとは。
 結婚してから、専業主婦として過ごした4年のうちに、私というデバイスから「コミュニケーション」というアプリが動作不良を起こすようになっている。
 商社の営業部で最年少課長となった夫は、毎日終電近くまで仕事か商談か接待をして、土日は取引先とのゴルフに行く。たまに休みがあっても、近所のスーパーに買い物に行く程度で、ここ2年はデートや旅行に行った記憶もない。ケンカした記憶もない。
 タクシーですら、会社員時代に会社に遅刻しそうになって使って以来、久しぶりに乗った。
 それでも、東日本出身の私は、引っ込み思案な性格も相まって、関西弁が飛び交う場所で働く勇気を持てずにいる。SNSをやっていないから、友だちもいない。そうこうしているうちに、家庭内別居の専業主婦という素直に受け取れない肩書を、両肩で支えることになってしまった。引きこもったせいで、思いのほか分厚く太ってしまった、この両肩で。
 専業主婦というと、世間的には家事や育児をするもんだと思っているらしい。働いていないのだから、家のことや子どものことを、という理屈は分かるし、それが生きがいになる場合もあるだろう。
 でも、私のやる家事なんて普段はゴミ捨てくらいだ。
 洗い物は食洗機、洗濯物は乾燥機付き洗濯機、掃除はロボット掃除機がやってくれる。
 便利さと引き換えに、私の存在価値もきれいに洗い流された。
「よく私4年も頑張ってた」
 つい漏れてしまった声に、慌ててミラー越しに運転手を見ると、ちらりとこちらに視線を向けただけで、今度は何も言わなかった。
 専業主婦と人見知りと家事免除で、私は一直線に引きこもった。せめて、子どもがいたら違ったのだろうけど、そもそも子どもができるような行為をしていない。
 色々とぽっきりと折れた私は、テーブルの上に「実家へ帰ります」とだけ書いて出てきた。
 テーブルの上には、夫が何かの理由でもらってきた赤いバラが飾られている。もうとっくに枯れているその花が、どうしても片付けられず、そのままになっていたのを思い出した。
 タクシーは、実家の街に続く路線が出入りする駅に到着した。

 もう今日は完全に真夏日だ。朝の天気予報では、30度超えないって言っていたのに。
 実家の庭にあるバラの木には、たくさんの花がついている。その割にみすぼらしく見えるのは、きっと暑さのせいだろう。
 実家に帰って3日経つけど、日増しに暑くなる。
「美里、水やりだけじゃなくて、しおれたバラの花は枝ごと切り落としてって言ったでしょ」
 バラの隣に植えてあるブルーベリーに水をかけていると、母が2階のベランダから声をかけてきた。
「あ、ごめん」
 ボソッと漏れた謝罪は、2階に届く前に散っていった。
 剪定ばさみを取りに玄関の扉を開けると、階段を降りてきた母に出くわした。
「あら、これから切るの?バラの花は、萎れてきたら切り落とすんだよ。覚えてないかもしれないけど、美里が小学生のときに、社会科見学で園芸研究所に行ったでしょ。帰ってきた美里に教えてもらったんだよ。バラは萎れたら枝から落とさないと、萎れた花のカビが全体に広がっちゃうって。それに、切ると二番花、三番花が咲いて、キレイな花を長く楽しめるってね」
「そうだったっけ。あー、私覚えてない」
 小学生の子どもからのアドバイスを今でも覚えていて、毎年バラを咲かせている母は、すごいなと思う。やっぱりちゃんとしている。
 昔はそれが窮屈で、専門学校は一人暮らしできる遠くの学校にしたし、ここ数年は夫が忙しくて帰省もしていなかった。でも、やっぱりちゃんとしているってすごいな。
「ねえ、美里。俊哉さんも忙しいだろうけど、ちゃんと一回話し合ってね。人の縁っていうのは、バラみたいに簡単に切れるもんじゃないから」
「うん、分かってる」
 夫からは、実家に着いた翌日に連絡があった。今週末にこっちに来るらしい。
 玄関に掛けてあるガス会社のカレンダーに目をやる。今日が金曜日だから、たぶん明日来るかもしれない。夫にはあえて連絡せずにいる。
 私はシューズラックに置いてある剪定ばさみを取ると、玄関を出て陽の光がジンジンする庭に向かった。
「人の縁は簡単に切れない、か」
 私は口の中で、母の言葉を反芻する。
 パチン。
 私は夫とどうしたいんだろう。たぶん、別れたいわけじゃない、と思う。
 母の「ちゃんと」が窮屈だったわりに、昔から私の意志は、すぐにゆらゆらとなびいてしまう。
 パチン。
 でも、私と夫との結婚生活は、萎びてしまった。切るべき咲がらのような気もする。
 パチン。
 ゆらゆらと揺れる私の考えに合いの手を入れるように、剪定ばさみの小気味いい音がする。
 夫と離婚して、働き始めたら私の生活は、一気に変わるだろうな。
 パチン。
 働けば、変わる。そうか、私、働きたいんだ。ただ飼われているだけのような生活が嫌なんだ。 夫はどう思うだろうか。私に働いてほしくないんだろうな。きっと。
 パチン。
 風が一陣通り抜ける。無造作に後ろで縛った髪が揺れて、右肩に乗る。
 バラの木がさわわと音を立てたとき、なんの前触れもなく夫のセリフを思い出した。
 なんで忘れてたんだろう。夫は、私がもっと外で働いたり遊んだりできるようにって、全自動の家電を揃えてくれたんだった。
 切るべき咲がらは、やっぱり主婦としての生活だ。もうそれは、間違いなくしぼんでいる。

 私が、実家に帰らせていただきますって家出したことを話すと、同僚の女の子はポカンと口を開けて、動きを止めた。こんなマンガみたいなリアクションする人もいるんだなと思っていると、えー!と言って、目を丸くした。
「美里さんって、仕事はデキるけど大人しくて、そんな大胆なことする人だと思わなかったです」
「半年前の私はどうかしてたわ」
 ようやく私の「コミュニケーション」というアプリが再インストールされてきた感じがする。
「で、旦那さんはすぐに迎えに来はったんですか?」
「それがね、夫がさ」
 言いかけたところでチャイムが鳴る。昼休みが終わった。オフィスの照明が点けられて、仕事モードの空気が広がる。
「あー、昼休み終わっちゃったね。この話は、また明日」
 同僚の女の子は、眉間にしわを作って抗議の表情をしている。
 やっぱりゆらゆら揺れる私に、主婦なんて無理だった。主婦という咲がらを切った今の私は、仕事の花を咲かせようとしている。
 でもいつかきっと、この花も切るときが来る。そうやって、人生に新しい花をどんどん咲かせていけばいい。
 デスクに戻った私は、キーボードを叩いて仕事を再開する。
 赤く塗った爪が、キーボードの上で踊り始めた。


七緒よう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?