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もう居ない人間の「美談」も悪くない

最近、誰のために何のために、漫画なり文章なりを書いているのか、そこに何か大きな意味や価値があるのか、自分が一体何をしたいのか、漠然とむなしさを感じていたけれど、もうすぐ大好きな友人の命日だと気づいてから、ああ、そういえばわたしは自分の心を整理するためにこうやって絵を描いたり、文章を書いたり、モノを作ってきたのだから、そのままで良いのではないか、と思った。

友人が亡くなったと知った直後は、「自殺」というワードを見たり聞いたり、またその要素が入っているストーリー(映画や本)を目にすると、心臓をキュッと掴まれるような気持ちを覚えた。それは今でも、少しだけそうなる。

あるとき、恋煩いの末に命を絶った知り合いの話を聞いた。
その人とは一度しか面識がなかったが、恋が成就しなかった悔しさから、自分の気持ちに振り向いてくれなかった相手に、呪詛の言葉を残しながら死んでいったと聞き、わたしは悲しさと呆れと怒りで、思わずキツい言葉を吐いてしまった。

しかし、あとあと考えたところ、結局はわたしの友人も、なぜ死んでしまったのか本当の理由は分からないのだ。もしかしたら彼だって恋が上手くいかずに死んでいった可能性だってある。相手の本当の気持ち、抱えていた問題、置かれていた状況、それらを知らないのに、外野が暴言など吐いてはいけないのだと、深く反省した。


10月27日が友人の命日。10月に入ってから、一緒に仕事をする相手の苗字が、友人と同じ苗字であったり、また担当案件の会社名に友人の苗字が入っていたり、ということが続いた。すべてきっと偶然ではあるけれど、妙なカタチでわたしに会いにきたのだなと思えば、それはそれで面白い。

毎年こうしてわたしが友人について書く記事を、どれだけの人が読んでいるのかは分からないが、彼の記事を書くことによって、わたしはきっと友人と「再会」しているのだ。


10月27日を迎えたら聞いてみたい。
友人よ、君が死んでから3年が経ったわたしの姿はどうだ。年を取っただろうか。口調や声や、顔つきはどうだ。幸せそうか、それとも憂いを帯びているか。いったいどんな風に見えるか。

世の中には偶然がありすぎるので、そのすべてを意味がある!運命的だ!と決めつけるのはあまりにロマンチックかもしれない。でも、この友人にまつわる、さまざまな出来事においては、なんとなくそれはみんな意味のあることのような気がしている。

たとえば、友人が死んで1年後。彼はわたしの夢枕に立った。「生きているか?」と聞いたところ彼は首を横に振った――これがあったから、わたしは淡い期待を持たずに、彼の死を受け入れたのだった。あのときは、本当にありがとう。(参考:久しぶりに夢枕に立った友人のはなし。


死人に口なし。だから、彼らとの思い出は美談になってしまいがち。あいつは良いやつだった、あいつのおかげでここまで来れた、あいつは、あいつは…。その通り、すべてが美しくなってしまう。しかし、その気持ち、今ではすこし分かる。美談になってしまうのではなく、美談に”したい”のだ。

なぜなら、死んだお前のことが好きだから、いつまでも思い出を美しく、大切に保管し、それを愛し続けたいからだ。

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