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破壊と再生(「ナイルパーチの女子会」柚木麻子)

いつか読みたいなあと思いつつも、なんとなく後回しにしてきた作品だった。タイトルから想像する「女同士のいざこざ」のイメージがそうさせていたのかもしれない。

ブログがきっかけで偶然出会った大手商社につとめる栄利子と専業主婦の翔子。互いによい友達になれそうと思ったふたりだったが、あることが原因でその関係は思いもよらぬ方向に—。女同士の関係の極北を描く、傑作長編小説。(Amazonの内容紹介より)

たしかに登場人物のほとんどは女性で、大小さまざまなすれちがいが描かれている。途中ページをめくるのがつらくなるほど、ひりひりする。けれど読み終えた今自分の中にのこっているのは、最初に想像していた「女同士のいざこざ」とは全く別のものだった。

ランチに誘われたい、一緒にいたい、気にかけてほしい、話を聞いてほしい、理解してほしい。それぞれの登場人物がほぼ一方通行に抱くどの思いも、辿っていくともともとは同じもの、「さびしさ」からうまれている。

それは物語がすすむにつれじわじわと不気味なしみを広げていき、さわると手がじいんとしびれそうなほど冷たい。読んだ後に残ったのは、押し込めすぎて麻痺している「さびしさ」や、「愛されたい」という切迫した叫びのようなものだった。
とくに主人公の栄利子が上っ面だけ取り繕ろうとする姿と内面で必死でもがく様子は、愛してほしい、大事にされたいのだと泣きじゃくる子どものように思えてくる。真織の影響を受ける姿などは「さびしさ」が全身に詰まって窒息寸前で、ほぼパニック状態だった。

「さびしさ」は生きていくうえで逃れられないものだし、自分を律するために必要なものだとも思う。けれど頭のてっぺんまでそれに浸かって窒息してパニックになってしまったら、一度壊れてしまうのも仕方ないというか、それでしか前には進めないと思う。それは決して悪いことでもおそろしいことでもない。

誰だって破壊と再生を繰り返して生きている。
私も過剰な自意識や思い込み、自分に都合のいい妄想をいくつも抱えて、他人に委ねていたことがたくさんある。今ならそれを全部受け止めて叶えてくれる人などいないと当たり前のように思えるんだけど、当時は窒息しそうなくらい苦しくてパニックで、とても冷静には考えられない。けんかっ早さと思い込みと葛藤で、今思えば常に酔っているような状態だった。
そういう状態から目を覚ますには、一度「壊れてしまう」ことが必要だった。時間をかけて我に返って、他人に自分の評価を委ねずに、自分で自分と手をつなぐことからはじめるしかない。

言葉にするのは簡単で、実際はとても時間がかかるものだけど、そこにたどり着けたらずいぶん深く呼吸ができるようになるし、急に視界が広くなったように感じられる。
小説の結末に自分の今の気持ちがリンクして、登場人物の後ろすがたに「健闘を祈る」と声をかけたくなった。

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