卒業研究におけるコーチングとティーチング
コーチングとティーチングの違いは人材育成の場でよく指摘されるところだ。
ティーチングで何でもかんでも「教える」のではなく,相手に考えさせることで「自分で答えに到達してもらう」のがコーチングの良さだという。
自身の経験からも,自分で本当に理解したと感じたことは忘れないものだ。
一通り義務教育を終えて,社会に踏み出す手前の大学生にとっては,ティーチングで知識を詰め込む指導をするよりも,相手の考えを尊重したコーチングによって課題解決能力を伸ばす方が良いように感じている。
一方で,研究教育の場ではその難しさも感じている。
授業でのコーチング
大学の授業では,コーチングを導入することはそれほど難しくない。
例えば数学の課題を出した時,教員は問題の答えとそこに至るまでの道筋は既に知っている。
学生も数学の基礎知識は高校までで習得しているので,基本的な思考法は身に付けている。
なので,学生が間違ったり困っているようなら「なぜそのような考えに至ったのか」「どうすれば解に辿り着けるのか」を学生に考えさせながら誘導することができる。
PBLやワークショップなど,意見を出し合いながら答えを探すタイプの授業もあるが,教員は割と俯瞰した立場に居られることから,適宜アドバイスをしながら話が逸脱しないように方向性を調整することはそれほど難しくない。
研究における特殊性
一方,研究の場合には,課題は明確だが,答えは我々教員もわからない場合がほとんどだ。
課題を解決するためには,そもそもどういった手順を踏めば良いのか,その段階から考える必要がある。
当たり前だが,指導者側が答えを持っていないことに対してコーチングするのは難しい。
もちろん教員は学生よりも知識と経験があるので,ある程度「こうしたら良さそう」という考えはあるが,それを言ってしまうとティーチングになってしまい,経験の乏しい学生は無抵抗でそれを信じてしまう。
なので,「これを明らかにするにはどうしたら良い?」「それだと逆にこういう問題が出そうだけどどう思う?」と学生に考えさせながら,進めていくようにしている。
かといって卒業研究には〆切があるので,学生が答えを見つけることをいつまでも待つわけにもいかない。
早く成果を出したい気持ちと無闇にティーチングすべきではないという気持ちの折り合いはとても難しい。
研究成果の不確実性
また,研究である以上,コーチングによって納得して取り組んだとしても望んだ結果が得られる保証はない。
そもそも答えがないから研究するわけだが,求めていた結果が出なかった時に学生は挫折感を覚え,最近はメンタルを病んでしまうことさえある。
この傾向は,答えが出ることに慣れきっている勉強のできる学生ほど大きいように感じる。
もしくは,「先生に言われた通りにやったのに」と教員に対して不信感を抱くこともある。
これはティーチングの割合が大きい時に起きやすいように感じるため,研究教育の場においては,失敗することも織り込んだ上でのコーチングが求められているように思う。
議論を通じて
その中で,結果に対する議論に時間を割くことが重要なように感じる。
我々教員は,予め研究の最終的な答えは持っていなくても,得られた結果についての解釈は学生よりも早く深くできるはずだ。
得られた結果を見ながらその都度コーチングすることにより,結果に真摯に向き合うこと・結果から傾向を得ること・未知なる事象に挑戦していること,を気付かせたいと常々思っている。
もちろん,逆に学生の何気ない発想から気付きを得ることも大事だ。
以上のことは頭ではわかっているつもりだが,進捗状況に対する焦りからついついコーチングをサボってティーチングに逃げてしまう。
学生を自分の手駒にしても,学生の成長には繋がらない。
学生の成長を第一に,考えさせる教育を研究を通して行いたい。
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