「人生は運か、努力か」という設問の間違い

■「親ガチャ」「国ガチャ」「時代ガチャ」 人生から“運”は完全に排除されるべきかを哲学的に考える
(AERA dot. - 10月23日 10:00)
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>自分の境遇や人生の出来事を必然と考えるか、偶然と考えるか。ハッピーなことは「必然」と考え、ドツボのときは「偶然」で済ます。精神衛生上は、それがいい気がするが、人間的に成長しない気もする。「努力すると運まで開ける」とよく言われるが、きれいごとを言うなと思う半面、うなずけるところも多々ある。人生は運か、努力か。どう考えるべきか――『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)より、いま最も注目される哲学者・古田徹也さんに教えていただこう。

⇒とりあえずの答えとしては「人生は運か、努力か」という設問自体がすでにして誤っていると個人的には思う。前提となる設問が間違ってるので、導き出される回答という結論が正しくなるとは思えない。

>私の日々の主要な仕事は、大学で授業を行うことだ。授業の場では、毎回最後に学生たちにコメント(授業の内容に関する質問や意見など)を書いてもらうことにしている。いまから4~5年前、運と道徳の関係を主題とする講義を行っていたとき、学生のコメントのなかに、何度も「親ガチャ」という言葉が出てきた。
・・・転じて、「親ガチャ」という言葉は、子がどんな両親の下に生まれるかという運を表現しているようだ。たとえば、「親ガチャに外れた」という表現は、自分が貧乏な家庭に生まれ育ったことや、親が虐待をする人間であったことなどを意味するというわけだ。
 確かに、私たちは自分の生みの親を選べなかった。しかしそれを言うなら、いまの自分をかたちづくる物事の大半は「ガチャ」を引いた結果ということにならないだろうか。実際、「顔ガチャ」という表現もネット上などではよく使われている。つまり、「イケメン」に生まれるか「ブサイク」に生まれるか、という運のことだ。ほかにも、「体ガチャ」、「地元ガチャ」、「国ガチャ」、「時代ガチャ」……何でも言えそうだ。
 だから、すべては運だなどと考えてはいけない。それは甘えだ。たとえ裕福な家庭に生まれなくても、必死に頑張って成功した者も多い。自分の置かれた場所や条件の下で努力すべきだ。すべては自己責任なんだ。
 ――この種のお説教を小さい頃から浴び続けてきた学生たちは、「運命」や「定め」といった重苦しい言葉ではなく、「ガチャ」という、これ以上ないほど軽い言葉によって、きれいごとを突き放してみせる。

⇒全部が自己責任=「運も実力のうち」という「強い自由主義」的な考え方はある種のすがすがしいまでの爽快さがある点は認める。私の言葉で言うと「自分の領域」にはない「他人の領域」「環境の領域」にあることは原則としてコントロールできない。
自分の領域外は「ガチャだから諦める」という点は同意だが、だからといって「全部無駄だ」として「自分の領域の最善を尽くす」という努力をやめる理由にはなるまい。

>自分の意志が及ばないもの、自分のコントロールを超え出たものを、人は「運」と呼んできた。あるいは、「運命」、さらには「ガチャ」などと呼んできた。私たちの日々の行為の大半は、運の要素とそうでないものの網の目として捉えることができる。そして、そのような「網の目」こそが、個々の人生の実質やアイデンティティをかたちづくっている。

⇒例えば親ガチャは「すでに出た結果」だ。その先まで決められてるわけではない。未来については本人の意思や努力を示せる余地がある。「親ガチャだから諦める」という人は、まあそうしたらいいだろう。ロクな人生にはならないことは保証するが、あきらめた人がそれを全面的に受け入れるのも、「本人の領域」にある。私はあきらめないけどねw

⇒単なる言葉遊びだが、「運」とひとくくりにするよりも、私は「他人」「環境」の2つの領域に分けるのが大切だと考える。本当の意味での「運」は「環境」由来もので、人の意思が働いてないものに絞る。「他人の領域」についてはそこに一定の合理性や意思が働くので、純然たる「運」とは異なるので、「基本的にあきらめてはいるが、働きかけることは不可能ではない」というのが違いだ。

>いずれにせよ、はっきりと言えるのは、「すべては運次第だ」という主張も、それから、「すべては意志や努力次第だ」という主張も、どちらも間違っているということだ。

⇒これは同意。両方のバランスというモノがある。

>運などそもそも存在しないかのように、「すべては意志や努力次第だ」という道徳的建前を繰り返すのではなく、運が不断に織り込まれたものとしての人生のありようを、多様な角度からあるがままに捉え、語ろうとすること。――「ガチャ」の比喩が行き渡った場所に届くのは、そうした言葉だと思われる。

⇒「すべては意志や努力次第だ」というのは私の言う「自分の領域」になる。「ガチャ」と称されるのは「他人の領域」+「環境の領域」だ。自分の領域については何があろうと諦める理由にはならないし、ガチャについても「他人の領域」については働きかける余地については「自分の領域」だし、「環境の領域」についてもその法則性を見抜く努力はやはり「自分の領域」にあるのだ。そんなこともわからずに「ガチャだから仕方がない」という人は、まあしょせん「その程度」という事だろう。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。