見出し画像

【683/1096】納めることの大切さ

呼吸・整体で学んだことのひとつに、「生待応従納」がある。
これは例えば、箸をもつという動きをするときに、
生=意図を持つ。(箸を持とうとする)
待=生じた力の方向性を待つ(箸のあるほうに手が行こうとする)
応=その力に応じる(その力を使って箸を持つ)
従=応じたものに従って動く(持った箸を動かす)
納=動きを納める(箸を置く)
とみたいな感じ。
いちいち考えてやると身体の声が聞こえなくなるので、これは考えてやることではない。
待つ~納めるまでは、身体がどのように動きたいか?があるのでそれを邪魔しないで動いて、終わらせる。
一瞬一瞬、この積み重ねである。

トラウマとは、かつてなんらかの衝撃により起きた生理的反応が身体に未完了のまま残っていることを意味している。
つまり、納めていない。

この未完了を終わらせるというのが、凄まじく大事である。

けれども、どの反応がトラウマなのか?など、完全に正確に見分けられる人はいない。
要は、未完了を完了にすればよい。
このとき、認知は関係ない。
身体の未完了を終わらせる。
ということは、日常の動作すべてで納めていれば、勝手に終わっていくのである。

ところが、私たちは、日常の動作を全然終わらせずに(納めずに)、次にいく。
次から次へ動く。
今やっていることを終わらせる前に、次のことを考える。
未完了がたまる一方である。

一日の終わりに全部まとめて完了させよう、などとわざわざ計画しているわけではなくて、どんどん勝手に立ち上げていく。

パソコンやらスマートフォンで、立ち上げっぱなしのアプリが1000も2000もあったら、動作が重くなってしまう。
使ってるとイライラしてくるだろう。
人間もそれと同じことが起きるのである。

一個、アプリ立ち上げたら、終わらせてから次に行くのが身体の望みなのだ。
けれどもそれを、頭(認知、思考、気持ちなど)が邪魔をする。次へ、次へ、早く早く!追い立てられるように終わらせる前に次の動作に行っている。
これにまず、気づいていない。
そして、自分がどれだけ立ち上げっぱなしなのかの数もわからなくなっている。
そうなって、もうパンパンになってしまって、全部いっぺんにバン!といきなり電源切る、というようなことはかなり危険である。
どこか壊れる。

自分が、イライラしたり、焦ったり、不安になったりしているときは、この状態になっている。
自律神経的には、交感神経高止まり状態。
自分のパーソナリティや、認知とは関係なくて、身体の状態を変えてあげればいいのである。
一呼吸、終わらせる。
終わらせてから次に行く。
次から次へやっても、終わらせてからやっても、時間的にはほとんど差がない。
なのに、なぜ、次から次へ終わらせずにやってしまうか?
身体を無視しているから。
身体のしたいことを邪魔しているから。

身体と心を切り離すことはできないのだから、
身体の邪魔をしないで仲良くしたほうがずっと楽になる。
未完了を残したまま次に行かないということが、本当に大切。
納める、までやりきる。
一挙手一投足、納めればよいだけ。

読むとめちゃめちゃ簡単だけど、やってみるとこれがっ!!!って感じだけども。。でもやり続けると、確実に変わる。
生活が一変します。

では、また。




1096日連続毎日書くことに挑戦中です。サポートしてくださるとものすごくものすごく励みになります◎ あなたにも佳いことがありますように!