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【221/1096】感じる言葉

221日目。今日は、呼吸であり方をととのえるクラスの日でした。毎月継続的に呼吸をつかって、身体、心、あり方をととのえていくことを仲間と一緒にやるクラスで、今一番楽しみにしている。自分の伝え手としてのあり方もそのまま顕れるので、ほんとがんばる!


最近、読み返している本がある。
「身体はトラウマを記録する」(ベッセル・ヴァン・デア・コーク著)

トラウマを扱うカウンセラーやセラピストだけではなく、自分のトラウマ症状に悩む人などにも読まれている。
私は、2017年にこれを読んで、自分があまりにもこれに当てはまることが多くて、衝撃を受けた。

それまでは、「私のしてきた体験はたいしたことではない」と矮小化して、感覚を麻痺、抑圧させてきたので、自分の体験をそのまま受け取ることができていなかったのだと知った。
知ったからと言って、いきなりまるごと受け取れるわけではなかったが。

その頃、わたしが悩んでいたことは、自分に常に
「嘘をついているわけではないが、本当のことを言っていない」という感覚があることだった。
知識や情報のやり取りをしているときにはそのような感覚はないが、心の交流、つまり人と人とが交流するとき、コミュニケーションしているときに、それを強く感じた。

特に、言葉を話すときの声が悩みだった。
自分では声を小さくした自覚がないのに、とても小さくて聞き取れない声になると言われたり、口調が切り替わって別人のようになると言われたり、こびた声を出していると言われたりした。
それを意図的にやっているわけではなかったので、なぜそうなるのか自分でわからなかった。
なんらかの恐怖や緊張や不安が混じるとそうなるのだろうと思ったけれど。

「自分に正直になりたい」とそのころ、何度も手帳に書いている。

このヴァン・デア・コーク氏の本の中に

(ヴェトナム帰還兵のマーランス氏の体験談のあと)
回復に至るには真実を話せることが必要だったと、マーランスは読者に語る。
たとえその真実が残酷なほど不快なものだったとしても。

 死も、破壊も、悲しみも、その苦しみを網羅する包括的な意味が得られないときには、絶えず正当化されなければならない。この包括的な意味がないと、何かをでっちあげる、つまり嘘をついて、意味の間隙を埋めるように仕向けられる

「身体はトラウマを記録する」第14章より(太字は私がしたもの)

とあった。

人は自分が抱く恐怖を客観的に捉え、それを他者と共有することによって、自分は人類の一員であるという感覚を取り戻せる。

同上

自分がなにか正当化していて、嘘をつこうと思っているわけではないが、正直ではないと言う感覚は、ここにあると思った。

言葉にして話すということが、すごく難しかった。
どうでもいいことはペラペラ話せるが、肝心なこと、本音や本心をさらけ出すのは、無理だった。

人は秘密を守って情報を伏せておくかぎり、基本的に自分自身と闘っている状態にある。
自分の核心にある感情を隠すには厖大なエネルギーが必要なので、やりがいのある目標を追い求めるためのモチベーションが奪われ、辟易として、機能停止に陥ったままになる。

同上

自分が口に出して言っていないこと、言葉にできていないことをずっと抱えているのはわかっていても、それを話しても安全であると思える人に出会うことはとても困難だった。

もちろん、全容は伝えなくても、なんども小出しに助けを求めたことはある。
「気のせいでは?」
「そんなこと本当にある?」
「そういう人はいっぱいいるよ」
「みんな同じように苦しんでるよ」
などと言われると、次からはもう黙るしかない。
余談だが、私はこれを体験して、自助グループで語り合ったときに、同じような想いをして苦しんでいる人たちをたくさん見た。
そして、誰も聴いてくれないなら、自分が聴ける人になろうとカウンセリングの勉強を始めて、カウンセラー、セラピストになった。

もしくは自分がちょっと語ると、
「実は、わたしも同じようなことある」
と切り出され、話すのではなく聴く側に回ることもあった。
聴いているだけで癒されることはもちろんあるが、自分の言葉にできないというジレンマからは解放されない。

自分の感情を深く感じながら、その感情を他者に伝えるのはかなり難しいことだ。
すべてを言葉にすることはできないし、深く感じている状態では論理的に話すことはできないから、人に伝えると言うときにわかりやすく話すということができない。

ヴァン・デア・コーク氏の本によれば
「自分自身を知るのか、自分の物語を語るのか?」ということになる。
自分の物語を語るのは、時間に沿って自己をたどっていくものであり、自分自身を知るのは、その瞬間における身体感覚、身体的体験をつたえるということだ、というようなことが書いてあった。

「自分に起こっていることを伝えられるほど安全だ、と感じるまでは「幻影」のように見える」とも書いている。

私は、安全な誰かを探し続けるのをやめて、自分が自分にとって安全であることを選んだ。
つまり、自分の身体に自分自身がくつろいでいられるようになることを先にしようと決めたのだ。

なぜなら、身体は毎日自分と一緒に居るが、毎日一緒に居てくれる他人はいないから。
他者は、一緒に暮らしているからと言って、すべてを背負い込んでくれるわけではないし、自分で自分がわからないまま、自分のことを引き受けられないままでは、混乱と困惑から抜けられないだろうと思ったのだった。

そして、ほかの誰でもない、自分にだけは正直になろうと決めた。

トラウマは、人をまったく変えてしまう。「自分自身」ではなくなる。
自分自身と切り離して分裂してサバイブしているので、「自分自身」ではなく、そこにある物になる。
物であれば、感じる必要がない。それほど強く感じることから分離している。

自分自身になるためには、「感じる」ということをする必要がある。
感じていないことを言葉にすると、言葉が上滑りする。
人の心を動かす言葉は出ない。

「自分の身体の声を聴いて、言葉にする」ということが、自分自身を取り戻すために必要不可欠なのは、そのためだ。

自分の内部でなにが起きているか?
それは身体のどこで認識しているか?

肚の底で感じ、胸が張り裂けるほどの悲しみに耳を傾ける。
この心の奥底にたどり着くと、変化が始まる。

しかし、この奥底にたどり着く前に、
スリップしてしまうのは、よくある。
横滑りする。
奥底にたどり着く前にスリップして逃げている。
感じるのがこわい。
圧倒された記憶がよみがえるからだ。
トラウマとは圧倒された記憶だから。
だから、少し良くなったと思っても、また同じようなことが繰り返されるということがある。

でも、スリップしても、何度でも何度でもそこに立ち向かい続けている。
そして、同じように見えて、螺旋状に回っていて、少しずつ見える景色が変わっている。
一緒に伴走するセラピストは、その変わっている景色に気づいてもらうよう光をあてる。
それがエンパワメントだ。

自分の感じたことを言葉にする。
ぴったりくるまで繰り返し。
身体に何度でも聴く。
身体は必ず答えてくれる。

では、またね。





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