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【709/1096】聴く練習

定期的に人の話を聴く練習をする場に出て、チェックしてもらうというのをやっている。
特定の場で固定されているメンバーという場もあるが、
テーマに興味のある人が集う場もある。
後者の場合、聴くを専門にしている人だけが参加するというわけではなく、いろいろな立場の人が集うところがあり、そういう場はある意味、何が出るかわからない面白さみたいなものがある。

聴くというのは、自分のことはいったんわきに置いて、相手の世界はどうなっているのだろう?という相手の世界観を聴いていくということだ。
そして、その修練をする。
専門家(心理士とか、カウンセラーとか)ばかり集まってする場だと、それが前提となっているけど、専門家の訓練を受けていない人がいる場だと、そういうわけでもない。

興味のないことを聴けない人というのがいる。
その手法を練習する、修得するという目的で練習すると聴けないんだよなーと。

「なんでこれをやらなきゃいけないのか?」(ちなみに不貞腐れているわけではない。とてもまじめにやっている。)というのが波のように押し寄せている人に、聴かれるという体験をしたのだが、めちゃ面白かった。
聴くための質問をする練習だったわけだが、ぜんぜん聞いてもらったという体感もないし、むしろ、こっちがサービスして話してあげる体験になった。
そして、そういうときはオブザーブしている人も、聴けないので、私が言ってないことをさも言ったかのように勝手に解釈していた。
でもそういうのが全部すごく面白かった。
なんというか、人間ってこういう感じだよな!と思ったというか。各々が点でバラバラな自分が観たいものだけ観ていて、聞きたいように聞いている。
そこから一歩出るには、やっぱり、自分の器を広げるしかないわけで。

自分もカウンセリングの練習を始めた頃は、そういうことがたくさんあった。練習で出ている題材が全然興味持てなくて、無理やり聴こうとしてやると、メタメタになるみたいな。
そういうとき、自分のダメさ加減に落ち込んだけど、落ち込んでる場合じゃなかったよなと思う。

あれは、自分を直視するチャンスだった。
反省という陰に隠れて、目を背けたなーと今はわかる。
まあ、その繰り返しかもしれない。。
気づいてやり直し。
などと言っていると、人生はあっという間に終わってしまう。
やばいやばい。

相手が何を話すか、その内容や情報を聴くのではない。
相手がどんな世界観を持っているかを聴くのだ。
どんな語りをするか。
その語りをどう変えることができるか?が介入であり、他者が聴く意味。
自分の内側を語るのは、たいていの人にとって怖く不安なので、なかなか内側を語らない。話しやすいところから入ると、一般論を語る。しかし、一般論など、その人の世界観を知るのには何の役にも立たない。
そこに介入するのに、いろんな手法があるけど、けっきょくはその人そのものを観ているか、ということが介入できるか否かの分かれ目なのだと思う。

誰かのことではなく、自分のことを語るとき、自分はどんな語りをしているか?を自分で把握できる人は聴いてもらわなくても多分自力でなんとかできるんだろう。
私はなかなかそうはいかず、誰かに聴いてもらうことで、自分ってこういう風に話すんだなとようやく知る。
その話すときに、邪魔されないで聴いてもらえるというのがすごく大事。
だから、自分も人の邪魔しないように聴く。
そうできるようになるには、修練、場数がいる。

まずは自分で自分の邪魔をしないように、が大前提であるが。

では、また。

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