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【194/1096】相手を感じて話す言葉

194日目。肋骨はあらゆるところで動きを守ってくれているのだな、と感じる一日。昨日はアドレナリンの影響で痛みが薄らいでいたらしく、今朝になったらだいぶ痛かった。咳やくしゃみがかなりの脅威だ。階段は下るより昇る方が痛みがでるのだと知る。すこしの傾きでだいぶ違うのであるな・・・。家族がいろんなことを手伝ってくれて、助かっている。


今日は言葉について、考えてみる。
同じ言葉なのに、言われる人によって、まったく違う印象や受け取りになってしまうことはよくあることだけど、何がそんなに違うのか?を考える。

例えば、男性に
「女の人はたいへんだよね」
と言われたとする。

言われた相手によって、
A:ものすごくイラーッとしてしまう人
と、
B:うっすら涙ぐんでしまいそうになる人といる。
(ちなみうっすら涙ぐむのは悔しいからではなくて、理解されたと感じて癒されて涙が出る感じである。)

AとBはまったく同じ言葉を発したのに、受け取る方にこの違い。

もちろん、バカにしたように言われたとか、ちゃかして言われたとかだったら論外である。その場合はイラーッするのではなく、怒髪天な感じであろう。
Aはけっして失礼ではなく言っているのであるが、それゆえ、余計にイラーッとするのである。
いったい何が違うのか。

Aは頭で発していて、
Bは相手(つまり私)を感じて発している。
その違いなのだと思う。

相手を感じて言葉を発するというのは、
自分で自分を感じていない人にはできない。

自分の感じるを抑えていたら、
相手を感じることはできないからである。

感じると言うのは、頭の中でシミュレーションして組み立てることではない。
でも、人間はこれをやりがちだ。

なぜなら、実際に痛くなる前に、痛くなったらどうしようと思って感じることをやめることができるからである。
痛くなってから考えればいいのに、痛くなる前にやめるのである。
これをやっていると、痛くないのに、痛くなることができる。
例えば、テレビで痛そうな映像を見て、実際に自分も痛くなる。痛かったときの話を聞くと、自分も痛くなる。
痛くなった気になっているのであるが、それを本当の痛みか、痛くなった気になった痛みか脳は区別ができない。
これがけっこうやっかいだ。

自分の本当の痛みかどうか区別するには、身体で感じるしかない。
身体で感じないようにしていると、ある意味、虚構の世界で生きられるのである。
すごい。
でも、ずっと虚構の世界で生きることはできない。(たぶん)

相手を感じて発せられた言葉は、受け取ったほうにも何らか感じる言葉になる。
頭で発せられた言葉は、感じることができない。
感じられないと、頭で受け取るしかなく、頭で受け取るとジャッジするしかない。
ジャッジは正誤があるということだ。
自分にとって間違いなら怒りがわくようになっている。

子どもがずっと、
「これ、おいしくない」
と言って作った料理を残していた。
いつも腹が立ってイラーっとしていた。
ところが先日、
「これは口にあわないから、残すね」
と言った。
私はイラーっとせず、いいよ、と言った。
言葉が変わったから、受け取れたのか?と思ったが、それとはちょっと違った。
子どもは私を感じて言葉を発していたから、こちらも受け取れたのだなと気づいた。

どうして変わったかと思ったら、
子どもを感じて言葉を発するというのをその間、私がずっとやっていたのだった。
そうか、感じるをやっていると、相手も感じてくれるようになるのだなと思った。

相手を感じると、相手の感じも自分に入ってくるので、それだけ受け流す量が増す感じがする。
でも、受け流してしまえば循環するから、自分の中には溜まらない。
自分が自分の感情を抑圧していると、相手を感じようとするとその抑圧に触れてしんどくなる。
まずは蓋を外して、自分を感じてみる。
そこから相手を感じてみる。
コミュニケーションとはそういうことなんだなと思う。

では、またね。




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