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【539/1096】許可を出し続ける

朝から雨。
雨の中を20分歩く。
しとしと。
自分が濡れるのは好きじゃないが、濡れている景色を見るのは好きだ。
窓の外で、水たまりに雨のしずくが次々と落ちるのを見ているのは飽きない。

動的瞑想をやりながら、膝の力を抜いて、ただ身体が曲がりたい分だけ曲げるというのができなかったときのことを思い出す。
膝の力を抜くのはこわかった。
膝や足首に力を入れて、そこで耐えて支えていたから、力を抜くと身体が崩れ落ちると思った。
そういうとき、崩れ落ちてもいいからやってみるという選択は、あまりにこわすぎるのだ。
実際に崩れ落ちたからと言って、死ぬわけでもないのであるが、そう頭でわかっていても恐いものはこわい。
そしてやったのは、
「曲げたい分だけ曲げていいよ。」
と許可を出し続けるということであった。
力を抜くをやるのではなく。
「大丈夫だよ、いいよ」
と許可を出し続けて動く。
そうすると、ちょっとずつちょっとずつ、
「あ、大丈夫」
を積み重ねていけて、
あるところを過ぎると、
「ああ、もう大丈夫」
となる。
身体がしたいように、曲げたい分だけ、曲げたいように曲げられるようになる。
どうしたいかは、身体が知っていて、ただそれについていく。

圧倒的に「やめる」は、やってきていない。
その体験、経験値が少なすぎて、やめるができない。
やめる代わりに、何かをしている。
力を抜くかわりに、膝を曲げるをする。
でもこれは、身体のしたいではなく、頭で身体をコントロールしているだけである。
最初は、頭の声と、身体の声の区別もつかない。
司令塔がずっと頭で、頭の言うとおりに動かそうとしてきている。
その司令塔で、生きるのはずっとしっくり来ていない。
だとすれば、司令塔を変えないと。
身体の声を司令塔にするには、身体のしたいに従って、ただそこについていく動きを何度も何度もやる。
そこについていくのを許可し続ける。
許可し続けるというのも変だけど、頭があまりにもこわがりなので、許可を出し続けてあげないとすぐ動けなくなり、変な動きになる。
頭の通りに動かそうとしたときに、息があがっていなければいいが、たいていは息が上がっている。
息が上がると言うのは、ぜーはーするということだけではなく、自分の身体の中の圧が変化しているということ。
そこがどこまで繊細にキャッチできるかは、身体の感覚をどこまで磨いているかによる。
力み(緊張)はノイズだから、ノイズだらけでは聴こえようもない。

というようなことを、今日の呼吸のお稽古で。
今月は動的瞑想でした。

では、また。


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