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80代となる両親の終活に50代の私がどうしてもやりたかったこと

お盆休みも終わりというこの日。
私はひょんなことから
にゃむさんのこちらの記事にお邪魔した。

にゃむさんの記事は
昨年の5月。

当時訪問看護でにゃむさんが担当していた患者さん。
その方の最後の時が刻々と近づく中、お別れに来れない息子さんのために奔走したお話。
(内容は是非ご自身の目で。にゃむさんの優しさが溢れる素敵な記事です)
その時にゃむさんが取った行動とは…?


私は読みながら溢れる涙を止められなかった。


そして私も両親の生きた証を残したい。
そう思ったのだった。

蝉の声がそろそろ終わろうとする頃、まとまった休みが取れたので私は春以来ゆっくりと実家で過ごせた。

私の周りではここ数年
親を見送る人が多くなって来た。
私にとても近しい人は、お父さん(80代後半)を大晦日の除夜の鐘を聞いた直後に入ったお風呂で亡くした。
後日、彼女から寂しいお正月になったと聞いた。

私の両親も共に80代前半。
今は父も元気に車の運転をしているけど、いつどうなってもおかしくない年だ。

今日はそんな思いで帰った数日間の話…。



🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀

自宅から歩いてすぐの所に
小さな葬儀社が出来た。
そこに夫婦揃って会員になった。

と母から聞いたのは2年前のことだった。

ただ、私は施設内を見たことがない。

親に何かあった時は知的障害のある弟に代わり、私が仕切ることになるんだろうな。
そんな思いから一度両親と3人で施設見学をしておきたい。
そう伝えていた。


そして、今回の帰省をきっかけに見学することが出来た。
係の女性に案内されて施設内を見て回る。

回るといっても、平家ひらやのそれはとても小さく10人も入れば満員の会場。 
隣は安置室。
その二つの部屋とトイレ、事務室、受付。
とてもシンプル。
いや、シンプル過ぎるくらいだった。

よく見かける通夜の間、親族が泊まる部屋などはない。
よくよく話を聞くと通夜はしないプラン専用の施設だと言う。


「では、亡くなった人はどうするのか?」
と私が聞くと
「こちらに安置したあと夕方から翌朝までは鍵をかける」という。
その間、施設には係の人などいなくて無人(正しくは亡くなった人だけ)になるらしい。

確かに泊まる設備は無いからそうなるのはわかるけど、亡くなった親に付き添うことなく自分たちだけ家に帰るなんて。
いくら施設と自宅が近いとは言え
もやもやする私は改めて聞いた。

「家に連れて帰ることは出来ないのですか?」
聞くと
出来るという。


自宅でいつも寝ていた布団に遺体を安置すると、枕元には簡易の祭壇も設置してくれるそう。
ただ、ドライアイス代だけは別料金となります。と言われた。


私は両親に聞いてみた。

「葬儀会場で鍵をかけられてひとり安置されるのと、自宅に帰って来れるのとどっちが良い?」

もちろん両親ともに
「自宅の布団に寝かせて欲しい」
と答えた。


私は係の人から貰ったパンフレットに書き込んだ。

一旦自宅へ帰宅。



次はパンフレットに沿ってプラン内でついているものは何か?
係の人と一緒に確認して行った。

祭壇に置く写真。

顔写真さえあれば着ている服は和服やスーツなど顔はめのように何とでも加工してくれる。

母は金婚式の記念に夫婦で撮った写真を希望した。
父は具体的に自分の写真は決まらなかったけど
背景を選べることを知って
カタログの中から
日の出の写真を選んだ。



次は額縁に飾る造花の色合い。

色は4種類ほどあった。
父は白。
母はピンク。
私は次々パンフレットに書き込んで行った。


もちろん棺桶も選べる。

基本プランにお金を出せばいくらでも豪華に出来る。
そのため何種類ものデザインがカタログに載っていた。

両親は

「どうせ焼かれるもんやし〜」

と標準のデザインを指差した。

その際係の人が
「お棺に寄せ書きをする遺族の人もいますよ〜」

と教えてくれた。

「それいいね!」
と3人で反応したものの
両親が選んだものは布でおおわれている為マジックで書くと滲むらしい。

「そんな時は皆さんお棺の中に寄せ書きや家族の記念写真を入れる人が多いです」

とまた新しい情報を伝えてくれた。


よしよし寄せ書きもしよう。
家族写真も用意しておこう。
メモ書きは次々と増えていく。


祭壇に飾る花は何色を基調とするか?

母はピンクだろうと予想していた。
案の定、ピンクと答えた。

では父は?
黄色とか白かな?
という私達の予想に反して

「そうやなぁ〜。お父さんもピンクやなぁ〜」
と言ったものだから

「えぇー?そうなん?」

と2人して思わず大きな声を出してしまった。

棺に入れる故人の愛用品についても打ち合わせた。

父は早速、釣り竿を希望したが
金属が入っているものはダメだった。

では竹で作ってみては?
と私たちが提案すると
係の人が確認に走った。

しばらくして戻って来た彼女は
申し訳無さそうに言った。

「すいません。竹はぜるからダメなようです」

「なるほどねぇ〜」

「棺桶の中で竹がぜるとたしかに良くないわよねぇ」

と言うわけで全員笑いながら納得。
竹の釣り竿は却下となった。

ただし、父は釣り竿だけは諦められない様子。
「どこかで枝でも拾って来て釣り竿っぽく自分で作るか〜」
と自分に言い聞かせていた。

「釣り糸に使うものは木綿の糸など燃えるものにして下さいね」
とすかさず係の人からフォローが入った。

ナイロンの糸は溶けて骨にくっつく
から使えないそうだ。

色々と制限があるとは聞いてはいたものの「これらを当日の短い時間の中で決めるなんて不可能だなぁ」と思った。

つくづく聞いてよかったことばかりだ。


あと、枕元には少しの量だけど
飲み物や食べものなど
本人が生前よく口にしていたものを入れられると言う。

係の人がその時に使うという水筒を持って来た。
昔、昭和の時代に駅弁を買った時一緒についていた四角い水筒。
上に小さなコップがのっかっているもの、と言えばわかって貰えるだろうか?
(私と同じ50代の方ならご存知かも?)

それに蓮子の花がほどこされた葬儀専用のものだった。
(こうしたものも事前に見られる人もそうそういまい)
私はそんなことを思った。


飲み物については母の場合
すぐに決まった。

「お母さんは紅茶よね」

と私が聞くと母は大きく頷いた。

「一緒に何か食べものも入れられるんやって〜」

と再び声をかけると

「紅茶にはやっぱりクッキーかなぁ〜」
と嬉しそうに答える母。

紅茶とクッキー。

私は忘れずメモをした。

横にいる父は迷っていた。
飲み物はコーヒーとすぐに決まった。
昔はビール好きだったけど、私が家を出てからはコーヒー党になってたこともこの日初めて知った。

食べ物は何?
甘いもの?
聞いたけど今はピンと来ないようだ。

それもそうだよね。
施設見学のつもりで来たのに一気にこんな細かい話しまで決めてるんだもの。
食べものについては保留…。と。


中でも係の人もまじえて4人で爆笑した話しは
会葬中にかける曲に話題が及んだ時だった。


母は「ショパンの別れの曲」
を既に自分の式でかけて貰うために用意していると言った。

さて、問題は父。
なんと自分で歌ったものをCDに録っていると言う。
それを流して欲しい
と言ったのだ。

3人で顔を見合わせて大笑いした。


「何それ?」
「いつの間に?」
「ところで誰の歌?」

母と私が矢継ぎ早に質問する。
そして口にはしないけど、ここまで話し合いに参加してる係の人も、きっと聞きたくてうずうずしているに違いなかった。

「北島三郎の歌」
「昔カラオケを習いに行ってた時、友達がCDにしてくれた」

父は得意そうに話した。

母も私も初耳だった。
聞いていて良かった。
父はそのCDをなぜか2枚も作っていて自宅に置いてあると言う。

それは家に帰ってから、みんながちゃんとわかる場所に保管しておかなくちゃ。
この日の最重要事項が決定した。


「もうこの年まで生きたら、葬式では悲しんで欲しくない。
みんなに笑って送って欲しい」

父はポロッとそう言った。

きっと父の本音なんだろうなぁと思った。

私は鼻の奥がツンとなりながら
その言葉も書き漏らすまいとペンを走らせた。



ところで…

もう何時間ここにいるのだろう?

そう思っていたら

係の女性がとても申し訳なさそうに言葉を発した。

「すいません。
こんなに楽しい終活の話し合いにご参加させてもらってとても話しづらいんですが、私のパートの時間が4時まででして…。
実は他店にいる社員を今呼んでおりまして、もうすぐそのものと交代することになります。
私も最後までお付き合いしたかったのですが…」


時計を見ると4時半を過ぎていた。
来たのが2時頃。
もう2時間半もここにいる。

私達は恐縮して口々に謝った。

でもその人はこの話し合いが大変楽しかったこと、もう帰らないと行けない残念さを全面に出していて、それだけでとても良い人だとわかった。


とかく口ばかり出してお金を出さない人が親戚の中に1人2人いる。
実際父の親戚に心当たりのある人が存在する。
その人がもし来た時のためにも、3人でこれだけ決められたことはとても良かった。


社員の人とバトンタッチされた頃には私達のハイテンション(笑)さは少し収まり、あとは決定した内容を再び軽く確認すると帰路についた。




翌日…。



私は家から持って来ていた「ふわふわの紙粘土」を取り出すと、母に手型を取ってくれるようお願いした。


手のひら大に紙粘土を広げる。
最初テーブルの上に直接広げたら、後で外すのが大変だったので
母が持ってきたアルミホイルの上に再度紙粘土をねて置き直した。


まずは母の手型から。


次は庭に出ていた父を呼び
同じ要領で父の手型を取った。

母が言った。
「やっぱりお父さんの手大きいなぁ」



間に合った。

にゃむさんの記事に出てきた
お母さんの手型を取ること。
それを私は実現することが出来た。


葬式の段取りもかなり話し合えた。

西日の差し込む葬儀社の受付で
4人で笑って語り合ったこと。
この数時間は私にとっても両親にとっても、いつの日かきっと楽しい思い出となるはずだ。



私達は多くの奇跡の上に
今生きている。

ならば出来るだけ
楽しい時間を過ごしたい。

いつかこの世からいなくなった時。

その人のしかめっ面より
笑った顔を沢山思い出したい。
そして私もまた残して行く人に
笑った顔を思い出して欲しい。

私はこの数日でより一層実感している。

今日のタイミングでようやく両親の終活をこうして書けた。

これも忘備録として残そう。


今、両親が元気でいてくれる奇跡に感謝しよう。

そんな2人が出逢った末に私が産まれた。
これも紛れもない奇跡だ。

そして来週。


私は一つ年を重ねる…。





最後に
にゃむさんへ。
私に大切なことを気づかせてくれるきっかけとなった素敵な記事をシェアして下さって、本当にありがとうございました。






読んでくれてありがとう。
しあわせをありがとう。
出会えたご縁に感謝します。



最後まで読んで下さってありがとうございました🍀私の思いを私なりの言葉で綴りました。あなたにこの思いが届いたなら、とても嬉しいです😊あなたからのサポートは、愛あるnoteの世界に循環させていただきます💕