見出し画像

「大森さんちの家出」第2話

2、奥さん

幼い頃、一円玉落としが得意だった。
東京の縁日では見かけたことがないから、あれはうちの地方だけの遊戯だろうか。水槽のなかに、つぼや牛乳瓶が沈めてあって、水面から一円玉を放ち、容器にちょうど入れば水あめをもらえた。
私の放つ一円玉はどんなときでもちゃんと牛乳瓶の細い口に吸い込まれていった。
コツがあるのだ。
あれは、容器の口の真上に一円玉をもってきて、水平に置き、そっと指を離す。すると必ず、スタートした位置の同一線上に一円玉は戻ってくる。どんなに揺れても。どんなに、傾いでも。

夜、哲くんの胸に頭をのせて寝ていると、この一円玉落としを思い出す。その時々によって、ああよかったなあ、と思ったり、ああ怖いなあ、と思ったりする。

 野方駅のホームは改札が一つしかなくて、下りで降りると一旦階段を登って線路の上を渡り、また階段を降りなきゃならない。

 電車を降りた瞬間から、緊張していた。後ろを振り返るとぽろぽろと人が降りてくる。その中にあの子がいないか、ソフトフォーカスで人々をなぞる。ホラー映画でも怖い場面はそうする。見つからないといい。そう思っているから、すぐに顔を前へ戻す。

 追いついた人々の中に紛れて、階段を上る。空中廊下は窓付きのトンネルのようで、午後三時の日差しが床に不規則な縞模様を描いている。

「きれいだな」

 あれは新宿の京王デパートとどこかを繋ぐ廊下だった。やっぱり窓からの光がきれいで、「きれいだね」とつぶやいたら、哲くんは立ち止まって、窓の外をじっと眺めた。

「景色もだけど、この床に映った影のことだよ」そう言うと、哲くんはハッとして
「影か。僕、これのことかと思ったよ。こんな人通りの多いところ、しかも西日が直射するし、ビル風は強いだろうし。内窓と外窓で素材を変えてるのか、窓枠の工法かって」と言った。

 彼が見ていたのは窓ガラスだったのだ。その時、この人いいな、と思った。私たちはこんなに違うから、うまくいくんじゃないかって。 

 改札を出ると、またもや緊張してきた。あのアパートは南の方で、せっかく渡ったものを、今度は地上から踏切が開くのを待って、戻らなければいけない。ここの踏切はしかも長い。向こうの踏切に集まった人たちの顔を確かめる。痩せて日焼けしてあごマスクに八重歯をのぞかせた男が見えた気がして声が出そうになる。

 その声を、すり潰すように電車が通って、踏切が開いたら、向こうからやってくるのはあの子ではなく、部活帰りの女の子だった。

 豆腐屋「なかた」、ミネドラッグ、居酒屋「海の里」、スナック「お伽奏」、男前のお兄さんがやっているたこ焼き屋。自転車屋の角を曲がれば、アパートに着く。角を曲がり、左側に並ぶアパートの、四つ目。灰色の外壁に「コーポみかさ」の看板がかかっている。

 一階に並ぶどの扉も一人として表札に名前を出していない。ただ、白いプラスチックに黒く彫られた番号がはっつけられている。
 103号室の新聞受けは、ガムテープで大きくバッテンが貼られ、しばらくそのバッテンをアパートの入り口から凝視していたけど、それも十分に怪しい人だと我に返る。
 ベランダの方に回る。ベランダは隣の一戸建ての庭と向き合っていて、そのポーチに住人のふりをして入ってのぞく。茶色のカーテンがだらりと閉められていて、中は暗い。物干し竿には洗濯物一つぶら下がっていない。ただ、砂で汚れた健康サンダルが取り残されている。見覚えはない。それらを一瞬の間で確認し、私はまた、アパートの入り口に戻る。

 何をやっているんだ。犬みたいにウロウロと。哲くんが待っている。土日は私が作る番なんだ。

「やめた、やめた」

 声に出して引き返す。自転車屋の角を曲がり、たこ焼き屋の前で立ち止まる。

「二人前ください」

「あいよ」

 タオルを頭に巻いた男前のお兄さんは、たこ焼きをくるくると返しながら、上目遣いで私を見た。以前はなかったビニールの覆いがなんとも暑そうだ。

「あれ、久しぶりだね」

「覚えてるんですか」

「覚えてるよー。どうしたの、最近は彼氏の方しか来ないから、別れたんかと思ってたよ」

 生地の上に広げられた紅生姜が、つつかれまとめられ、しまわれていく。

「ああ……私、引っ越したから」かろうじて間を空けずに答える。

「え、そうなの。どこ?」

「柏です。あの、千葉のほうの」

「え、遠いじゃんー。遠距離だあ」

「はあ、まあ」

「じゃあ喧嘩しないように一個おまけしとくね。マヨと青海苔はかけていい? 全部かけだよね」

 あの人最近、どうですか。相変わらず貧乏そうですか。それとも新しい車、乗り回してますか。曲、作れてるんですかね? 聞きたいことが、くるくると生地の中に閉じ込められて、焼かれていく。

「はい、四百四十円になります」

「あ、はい」

 財布から小銭を取り出そうとして、指輪をはめていることに気づく。お兄さんに見られないように、不自然な持ち方をして、右手でお金を渡す。
 その手でたこ焼きの入った袋を受け取って、ペコペコと頭を下げ、駅へ向かって歩き出そうとして、つんのめる。お兄さんと目が合う。お兄さんは目でにこりと笑う。私もなるたけわかりやすく笑い、方向転換をし、自転車屋の角へ向かって歩く。
 ホカホカのたこ焼きを手に持って、またコープみかさの前に立つ。そのまま、一階に乗り込んでいってバッテンのガムテープの貼られたドアに立ち、ノブに手をかける。ノブは簡単に回って、ドアは簡単に開く。

〈つづく〉

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?