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会社が社会が倒れても食べゆく

今まで多くの仕事をした。「この先にやりたいことはない」または「もう十分やった」と思うと、わたしはそれまでのキャリアをあっさりと捨て、次のキャリアに移り、没頭した。

全く違うジャンルの職種に飛び込んだこともあるが、キャリアを捨てたといっても、その前後のジャンルを横飛びして架橋するような方法でつなげてきた気がする。例えば、法律から介護に入るときは、高齢者の金銭管理や契約関係の支援、介護から編集に入るときは介護福祉の専門書籍、といったふうに。

だからなのか、わたしはどんな仕事でも、いつでも移れる、できると思っているところがある。いまは仕事を変えようとは思わないけれど、同じ仕事をずっと続けていくだけが価値ではないと思ってしまっている。自分の父がそうだったように、もちろん極めることが美しい仕事があるのは十分に知っていて、それに憧れてもいる。でも、わたしはそういう生き方ではない人間だ。もうそれしかできないのだ。パパンごめん。

そもそも、全然違う仕事に移っても、あまり強い無力感を味わったことがない。介護現場で、人や制度がどうしようもなく思い通りにならないことはあったけれども、仕事に向かう姿勢はどの職種でも同じことだったし、職に固有の知識や技術は、その仕事が本質的に何をすることかがわかれば、そして真摯に向き合えば、すっと身についた。

コロナ騒ぎで、おそらく世界の社会構造は大きく変わる。会社が倒れるだけじゃない。たぶんいくつか―多くの職種が消え、新しい職種が生まれる。わたしがいま子ども代わりに育てている編集プロダクションも、あっさりと潰れるかもしれない。まあ、それはしかたない。

そもそも、わたしは会社に依頼していない。職種にも依頼していない。「仕事で食べていく」という姿勢に依頼している。仕事さえあれば、なんとか生きられる。それだけ。そしてどんな仕事にも、汚れ仕事でさえ、わたしはけっこう適応力がある、と思う。農家もやったし、お酒も運んだ。

この局面、そういう力の重要性は加速している。わたしだけじゃなく、そうして切った貼ったの現場で生きてきた人間が、自分の地頭で、できる仕事を考え出して、経済的に生き延びるような気がする。

この流感になんとかいのちを奪われずに生き延びたら、わたしはたぶん長生きだろう。うちの家系は女性がかなり長生きなのだ。だから、80歳まで働ける仕事を早めに仕込みたい、と考えている。たとえば瀬戸内寂聴みたいに、自分の恋愛遍歴を元に本で講話で癒やせる……ほどの遍歴はぜんぜんないので、もうちょっとどうにか自分の可能なjobを考えている途中だ。



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