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子どもとの関わり方の前提にあるもの

少し昔のことを思い出して、ツイートしたものに反応を頂いたので、深堀して書いてみようと思います。

ツイートは、私たちが行う子どもへの支援や関わりの、動機となる部分についてです。


私は子どもに関わる仕事をかれこれ10年近くしています。今でこそ上のツイートのようなスタンスで仕事をしていますが、この職種に足を踏み入れた最初の頃は、「この子、こんな生活をしていて、この先どうするのかな。可哀想に。」「私が関わっている以上、私が見放してしまっては、気の毒なことになる。」と、変な気負いがありました。なので、支援が自分の思うようにいかなかった日は「あの子に、何故伝わらないんだろう…」などと考え、帰りの車で落ち込んで泣いていた記憶もあります笑

そういう関わりをずっと続けて、身も心も消耗していました。

しかしながら、ある時ふと気づいたのです。「あれ?いくらあの子達のためを思っても、結局、あの子の親にもなれないし、現実的に、関わっている限られた時間でしか支援はできないのだ…」と。


「私はなんか根本的に間違ってるんじゃないか」

まずは、支援している時間以外にその子のことを考えるのはやめました。そうすることで、自分の気持ちがラクになると同時に、関わっている時間に冷静になれることで、見える世界が広がりました。

「住む世界も環境も違う私たち。この子の幸せと私の幸せは全く別物だ…。」

これに気づいて、私が目指す支援の方向性が大きく変わりました。

私が思う「この子はこうした方がいい」という先入観をまず捨て、「その子が自ら気づいて、この後の人生をどうしていきたいかを考えられるような支援」を目指すことにしました。


では、その支援で、どういう結果が出たか…。

それは子ども達が、自分がこの世を去る時に感じるものなので、私にはちょっと語れません。無責任なような気がしますが、それが真実じゃないでしょうかね。私はそう思います。

話を戻しますと、この子が不憫だ、可哀想だ、気の毒だ、が動機の関わりは、要するにその子がやりたいことではないので、その子にとっても消耗するものだし、支援する側にも消耗するものなのです。

たとえ、その子がその支援を受け入れたとしても、それは彼らの思考能力を奪い、こうせねば今後生きていけないという思考停止と強迫観念を植え付けないとも限りません。(少し大袈裟かな?)

では、どうやったらいいのよ!と怒られそうですが、私は正直、子どもへの関わりは方法論など存在しないと思っています。だから、自分達で考えて試行錯誤していくわけで。

とは言うものの、自分が気をつけている視点やコツみたいなものはちょいちょい以下のような感じにツイートしていますので、よろしければTwitterをフォローしてくださいませ♡


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