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夫はプロデビュー以来初めてリングに沈み、しゃくりなく私は1人、娘を抱きしめながら過去の自分とさよならをした。

私はとても不真面目な性格だった。


中学校に勉強をしに行った事もなければ、せっかくお金をかけて入れてもらった私学の高校までもをたった4ヶ月で中退した。中退をした理由など特にあるはずもなく「だるかったから」など中身が空っぽだと物語る、お決まりのセリフしかでてこなかった。

兄も姉も、大学までまともに進学させてきた母は異端児の誕生に困惑していた。

その頃の母は私に、よくこう言っておどけて見せた。

「ゲームをやってもいい?
 ときいてダメというと、やらないのが姉。

 ゲームをやってもいい?
 ときいてダメというと、いいというまで聞くのが兄。

 ゲームをやってもいい?
 ときいてダメというと、それでもやり始めるのがアナタ。」

なので高校の中退も、自分で決めた。母親の意見など聞かなくともわかっていたし、聞くことと聞き入れることが別物だということもわかっていた。それでも今だけを生きてきたし、生きていた。特に人生に意味をもたず。

今を今としてやり過ごすどうしようもない自分にやりきれない気持ちを残していたようにも思う。

その後、何となく始めたアクセサリーの販売員で社内での地位を得てはいたが、ただ職務をこなしていただけで、心はそこになく、どこまで行っても私は私自身をどうしようもなかった。

販売員4年目、成人式を終えた二十歳の頃。当時仲良くしていたいわゆるお転婆(綺麗にいうと)な先輩に、心が綺麗な男の子がいるよと紹介を受けた。紹介という制度が嫌いだった私は断ったが、その先輩はその男の子から友達を紹介してもらったことがあるのでお返しをしたことにしたいといった。仕方がないのですぐ連絡を絶てばいいと思って連絡先を教えた。

関西では難関私立大学をさす産近甲龍の龍の学校へ通っていて、アマチュアボクシング部に所属する彼は、スポーツ推薦で大学へ入学し、勉強は苦手であったが常に前向きに物事を捉える気持ちを持っていたし、努力が好きで負けず嫌い、心意気もよく、苦手な勉強にでさえ真正面から向き合っていた。なにかから逃げる様に流れて生きる私とは真逆の人間であった。連絡を取れば取るほど、どういう人間なのかわからなくなった。私とは違うところにいる。「何が違う」かはその時の私にはわからなかった。

そんな真逆だったはずの彼と何度か会って話すうちに不思議と付き合うことになり、そこが人生の分岐点(ターニングポイント)だったと当時の私は知る由もなかった。

交際は順調?(若い男女特有の嵐のようなお付き合いではあったが)に進みそこから1年が経った。努力や忍耐とは無縁の生活を送ってきた私は、初めて触れるスポーツマンシップにそろそろ嫌気がさし始めていた。

努力から迎えた彼の3度目の国体。なんとなく、荷造り等を手伝う関係にまで巻き込まれていた。応援しているふりを続けてここまできたが、限界が来ていた。というものの、適当な人生を送ってきた私の心は、何事にも動じない。響かない。彼が頑張っていようと、どこか他人事でボクシングに、全く興味も惹かれず。毎日汗水をたらしている彼が、違う生き物にさえ見えていた。

アマチュアボクシングの国体は、地方へいき毎日連日で試合がある。つまり毎日毎日が殴り合いで、テレビ通話をするたびに顔の傷が増えいくし"なんでたかが部活をそこまでがんばるん?"この疑問が常に私の頭をよぎって、素直に応援などできなかった。

そして迎えた国体の最終日。彼は例年通り決勝まで進出する。結果は国体結果が速報としてみれるWebサイトで更新ボタンを押して簡単にリアルタイムで確認することができる。でも私はそんな事をせずとも結果がわかっていた。

「どうせまた決勝で敗れるんやろ」

毎年の国体も、どのリーグ戦や大会も、決勝戦で必ず負けているのだ。そんな悪態を友達に言った。そしてその日、やっぱり彼は負けて帰ってきた。アマチュア0冠、それが彼だ。

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彼はある日、私に言った。大学を中退することにしたと。

「俺、東京に行って、プロボクサーになって世界をとる。
 俺一人で俺の夢を勝手に決めたから 
 別れるか、別れへんかは、麻裕子に選んでほしい」

私達の地元である大阪からは東京まで新幹線で2時間半の距離。20代の自分には遠く、それでなくとも熱すぎる彼に正直心も疲れてもいた。話し合いは別れる方向へと進んだ。

…なのに別れなかった。なぜかすすり泣き話し合いの結果互いに頑張ろうと励ましあう青春の二人の世界がそこにあった。別れたかったはずなのに、なぜか痞えるものがありその言葉が出てこない。好きだっただけだとは純粋に言えない気持ちもあったと思う。今思えば失敗するところを見たかったのかもしれない。綺麗で真っすぐに夢を語る彼に、現実がどうのしかかるのか。私の心に最初からあった、あのどうしようもなさが邪悪の鎧をまといつつあった。

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彼は東京に引っ越していき、私は変わらず販売員を続けていた。

目標を追う彼と毎日適当に暮らす私の間柄は結束など微塵も感じられないような関係だった。

朝5時に起きて、朝練をこなし、
終えれば夕方までアルバイトへ行き
帰ればすぐに夜中まで練習に励む。

そこから1年後、デビュー戦の知らせが来た。アマチュア時代もそばにいたのに、今まで一度も会場に足を運ぶことがなかったボクシングへ興味のない私は、その日にはじめて彼の試合を見ることになる。

2015年7月14日後楽園ホール。B級トーナメント2R1分55秒でKOデビュー。その後そのトーナメントで優勝した。

あれほどトーナメント決勝で負け続けていたアマチュア0冠の彼が。

彼の努力は確実に身を付けていた。

私は?いまだになんとなく販売員をやっている。なんとなくに邪悪の鎧を着て、次は嫉妬の剣や後ろめたさの盾までこさえて。

彼は「世界をとります」と誰に対しても普通の顔で普通に発言していた。現実を見てほしい、と思っていたはずの私も彼の行動量を感じ取り

そうなんだ。と違和感も感じず疑うこともない気持ちになりつつあった。でも彼の言葉を心に浮かべるたび、私の装備のレベルは確実に上がっていった。

彼はアマチュア時代の恩師である世界チャンプの石田さん(現寝屋川石田ジム会長)に憧れボクサーになった。

自分もそうなるのだと常々と口にしていた。

ある日私の友人がインタビューでの彼の発言をみたのか、その話題となったときに友人は言った。悪意などなくフラットに。

「ぜったい無理やろ~難しいって!」

普段なら同調するはずの私の心がなぜかムッとする気持ちになって、子供っぽく言い返してしまった。

「そんな事ないよ!結果なんてわからんし、努力する人を笑う事なんて神様でも許されるはずがないやん?」

そしてそこで気がついた。私もその子と同じだったということに。国体の決勝でどうせ負けるよと結果を見る前から笑って話していたのは誰でもなくこの私だった。

熱苦しい彼の行動全てに嫌気がさしていたのに、何度もくる別れの港で、彼とお別れしなかったのは、そんなまっすぐな彼が羨ましかったし、自分にはないそこに本当は惹かれていた。あの日からずっとそんな彼に心を動かされていた事にそれまで気がつかなかった。現実を現実として見極め、立っていたのは彼のほうだった。私は?

その時、この人の夢を一生見届けて、一緒に絶対叶えようと決意した。無理か無理じゃないかなど、やる前にわかる人がいるはずもなく。

それからというもの私はとても変わった。両手に抱えていたあの真っ黒な剣と盾を捨て、邪悪な鎧を脱ぎ捨てて。

この人の夢を一生見届けて、一緒に絶対叶える?

何をしたらいいかもわからず、とりあえずわかりやすく装備品を探すことにした。ネットでアスリートのサポートを闇雲に検索してたどり着いたアスリートフードマイスターの資格を取ることにした。その頃(2014年頃)はまだマイナーな資格だった。里田麻衣さんが取得したと騒がれる少し前の事で、多くの情報はなかったがすぐに受験して取得することができた。

栄養について勉強をするうちに、アスリートのリカバリーにかけ合わせた睡眠の重要性にも気が付きアクティブスリープ指導士の資格も取った。

次に考えたのはお金のこと。

アルバイトに勤しみながらプロボクサーをする彼は体を酷使していたし、パーソナルトレーニングなど質の良い練習を取り入れたり、試合前にはまとまった休みを取る事もあるので、ボクシングにはお金がかかる。

そうしてなんとなくの仕事にようやく変化を付けることにした。

朝の5時〜9時まではコンビニでアルバイト

11時〜20時までは販売員

21時〜25時まで友人の母親の米料理屋bar

で働く。

接客の仕事が天職だった。こんなに働いて寝る間もないのに毎日が楽しかった。(今考えれば体が若かったからできたのだけれど…)

そこから一年経った時、違うところにいると思って付き合った彼と同じ場所に私もいた。彼も無敗のまま順調に、二人で様々な意見を交換し、支えあえる関係にまでなっていた。精神面や、栄養面やお金の事も。全て。

上京してもっとそばで支えるには、私はいままでの体を酷使するのではなく、短時間で稼ぐ必要がある。これ以上のお金を稼ぐことを、体力面で楽にするには正社員になることだったが、理由なく高校を中途退学した自分の学歴では契約社員が限度だった。

中卒の自分に残されたルートは、絶対に社会のザルの目からこぼれ落ちない国家資格。そこで選んだのは「宅地建物取引士」という資格で、不動産会社では5人に1人が所持していなければ従業員人数を増やしてはいけない決まりになっているという。

またもや親に相談もなく、その年の12月を目標に一発合格をして上京をすると決めて、勉強を始めた。宅建の試験は毎年10月にある。残り3カ月だった。

とりあえず勉強した。仕事の休憩中や、もはや仕事中も。そのことばかり考えて。

この話はまた別の機会に話したいとおもうが、宣言通り合格した。知人、親、全員に、落ちる。といわれていた合格率は約15~18%の試験に。

上京準備を進める中、母と彼と東京で一度だけ食事をとった。

そのとき母親の意見など聞かず、またしても自分で勝手に家を決めて帰ってきた私を心配していた母は、彼に、今後のボクシングの展望を聞いた。

「二年以内に日本ベルトが取れなければ引退する。日本ベルトをとったら寮をでて麻裕子さんと結婚すると心に決めています。ダメージも蓄積される将来を考えて世界への見込みがなければ手放しすぐに違う仕事につきます。」


12月に上京した。遠距離恋愛の期間は三年間。彼はボクシング寮、私は一人暮らし。不動産会社のベンチャー企業で正社員となり、寮の門限がなくなる週末を一緒に過ごし、互いに切磋琢磨、頑張っていた。

先に結婚する友人や、自由に過ごす友人、沢山の人に、夢追い人にだまされているよ、と笑われたし、歳を考えて現実をみて、とも言われた。もし本当に有名になったら捨てられるよと言われたこともあった。

でも彼は私の母との約束の通りそこから二年で日本王者となった。

 【圧巻の92秒】として後の年度末授賞式に取り上げられる功績となる。その場にいた全員が盛り上がり席を立っていた。私は座っていた。当たり前の結果に驚くことはなかったからだ。ただ、ただ、当然だと心の中の気持ちは追いついていた。

その後母との約束通りに結婚もして、沢山の人の前で、夫婦二人、世界ベルトを取ると誓いながら歩んできた。そんな順調もつかの間、日本ベルトの防衛戦で夫は苦戦し判定でドローとなった。

これまですべてをKOで勝ち進んできたのに。

私はいつの間にか夫をサポートすることよりも、仕事を優先するようになっていた。出世し、部署ではトップ、お金もアルバイトを駆使していた時には、想像がつかない給料だった。でも心にまた何かを住み着かせていた。捨てられるよと笑っていた誰かのその言葉に囚われて。

夫の功績に自分が見合うような人間ではないとどこか悲観し、落ち込み、恥ずかしくないように夫とのギャップを仕事の出世で埋めていたにすぎない。私は私に自信がなかったのだ。夫だけが何百歩も先を歩いている。存在意義を求め、お金を夫に充てることがサポートしていることだと正当化し、置き換え、都合よく過ごしていた結果がここにあった。

忙しい私に代わり、洗濯、掃除は夫が担当していて、お金がサポートになる下積みのフィールドはとうにすぎていたのに。ドロー判定をもってそんな自分に後悔していた。

そんな時に夫が私に言った。

「仕事を辞めてほしい。」

続けて言う。

「仕事の事を見ていると、沢山の能力をもっているし、そのすべてを自分が世界をとるための料理やサポート、手助けにあててほしい。」

私の心に気が付きそう言った。いっけん、私がお願いされてるように捉えられるこのお願いは私を救うために使ったお願い。

明日怪我をするかもしれない、次の試合に負けるかもしれない、常に約束されない道をゆくのがプロボクサー。普通は避けたい道だと思う。ほとんどのボクサーは出来ないことでもある。怪我をしたらファイトマネーはない、契約スポーツではないボクシングでは相当の勝負にでる発言だった。

それでも夫は自分のお願いと見せかけて、私を救おうとしたのだ。家族でボクシングで生きていく、そう決めたのは私なんかじゃなくて夫が私の為に誘ってきた事だった。

また新しい形で二人で頑張ると決めて、私は仕事を辞めた。そこからは快調だった。

スポンサー対応や事務作業、栄養士との連携やすべての業務を引き受けて、子供も生まれ二人三脚から三人四脚となり、アスリートライフサポーターとしてサポートを徹底した。なんとなく生きてた自分はもういなかったし、自分で自分の努力を、夫を信じて頑張れるようになっていった。ボクシング以外でも真っ直ぐに向き合い続ける夫に長い時間をかけて人間の本質と向き合わされたからだ。

コロナウイルスにも負けずアジアベルトを掴み、やっと世界へのチャンスが来た。

元プロボクサー伊藤雅雪さんが代表を務めるトレジャーボクシング・プロモーションでの一戦だった。世界へのマッチメイクはとてもシビアな世界でもあるこの階級で、元プロボクサーが日本人選手に夢を与えてくれた。自分の夢への懸け橋となる、夫にとってとても大切な一戦だった。家族でこの一戦にこれまでのすべてをかけた。

彼をわらっていたあの日から10年がたっていた。

韓国まで1歳の娘と二人で飛行機に乗り、夫のサポートに飛んだ。笑顔で日本に帰国すると信じていたので部屋を飾り付けして。


でも、結果は負けた。

攻めに攻めの姿勢を重ね、攻撃型である自分の良さが仇となる試合だった。でも夫らしい試合だった。最後の最後まで、夫らしさがリングに込み上げていた。

これまでのいろいろな事が頭によぎった。こんな時に私は自分のことを考えていた。

私は何事にも興味がなかったのではなかった。なんとなく生きてきたわけでもない。対峙しなかったのだ。怖くて逃げてばかりいた。失敗を恥じ挑戦はせず、自分の大きさを知るのが怖かった。そんな自分に気が付かせてくれた夫は、目の前で大事に挑戦し、失敗に倒れている。いつでも逃げてばかりの私の邪悪な心を変えてくれた、頼もしかったあの彼が。

だれが、そんな人間を恥ずかしいと思うのか。

それはきっと、何事にも対峙しなかった「どうせまた決勝で敗れるんやろ」と笑っていたあの日の鎧の私であろう。本当はどちらが恥ずかしいのか。

しゃくりなく私は1人、娘を抱きしめながら過去の自分と本当の意味でさよならをした。夫と過ごした10年の中の沢山の選択に感謝して。もうこの装備は私には必要はない。何かが違うと思っていた彼は私と何も変わらないとも知った。でもそれがなければ、今を真っ直ぐに生きる私はいなかった。

試合が終わった後、私から誘った。

¨また一緒に戦おう¨

試合後のリングサイド

あの日夫はリングに沈んだのではない。空を仰いだのだ。これから沢山出会う世界の強豪に胸を唸らせ、夫だけはあの頃の彼のまま、また立ち上がる。

それが私たち夫婦で築いてきた

【夫婦で戦う格闘家 竹迫司登】だったりする

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私が変わったように夫には不思議な力があります。勇気をもらったり、一緒に頑張ろうと思えたり。前向きになれたり。応援者の皆様もいつもそう言って下さります。

10/7後楽園ホールで再起戦をします。
そんな力を少しお裾分けできるのではないかと思います。

私からチケットが購入できるのでよろしければぜひご来場くださるとうれしいです。ご来場が難しい方もU-NEXTでも10/7.18:00より放送があります。

#あの選択をしたから


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