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死ぬ自由、そして生きる

わたしは、いつでも死ねるように、いつ死んでも大丈夫なように、スマホのメモに遺書を残している。

そんな大した内容のものではないけれど、
想いを伝えたい人へのメッセージを残している。

「死にたい」と泣きながら訴えても、
「死んじゃいけないよ。家族がいるでしょう」
と医者に言われる。
「子どもを産んだだけか。無責任なやつやな」
と罵られたこともある。

そのたびにわたしは、
はいはい、分かりますよ。あなたたちの仰っていることは。正義を振りかざせばいいと思ってるんでしょ。
と、笑いそうになってしまうのだ。

もちろん、わたしだって頭で分かっている。
与えられた命がいかに尊いものであるか。

自分をここまで育てあげた母。
どんなわたしの姿を見ても、変わらぬ愛を注いでくれる夫。
無垢な笑顔で手を広げて抱っこをせがむ娘。

わたしの周りは愛に溢れている。満ちている。
死ぬ理由なんてないじゃないか。

しかしわたしの理解とは裏腹に、
こころがわめきちらすときがやってくる。

「お前なんていらない」
「不必要で、無生産で、邪魔なだけ」
「消えてしまえ」
という声が耳を塞いでも体の中で響き渡る。
どうしてもこの声から逃げられないのだ。

わたしは夫に伝えた。
「わたしには生きる権利もあるし、死にたいときには死ぬ権利もある。生きる自由と死ぬ自由があるの。」

夫は数日わたしの言葉と向き合ってくれた。

そして一言、
「mayuの言っていることは分かった。完全に受け入れられるわけではないけれど、考えを否定することはしないよ」
と言った。

そうだった、夫はわたしを否定しない人だった。
わたしの考えを正そうとしたり、
ひいては病気を治そうとしたりしない人だった。

病気のままでもいい、
入院してでも治したくなったら協力するよ、
このまま薬を飲みながら過ごすのもいい、
死ぬ権利があると思っていてもいい、
死にたい日があってもいい、

今日の気分と体調はどう?スタバでも行く?

と笑いかけてくれる人だ。

わたしの心の奥底には、死にたくなっちゃう時限爆弾みたいなものがあるんだろうけれど、

なんだか最近は着火していない。
のんびりした心で過ごせている。

こんな日がずっと続いてくれるといい。

死ぬ理由探しの日々を抜けて、
わたしに向けられる笑顔を守りたい。

死ぬ権利、死ぬ自由という概念をはね返すくらい、
泣いて笑ってこころで生きる日々を過ごしたい。

成長していく娘に置いていかれないように、
わたしも少しずつ歩んでいかなければ。
迷ったときには背の高い夫の姿を探せばいい、
重い荷物は夫が軽々と背負ってくれるだろう。

must で生きるのはもうやめよう。疲れた。

わたしはわたしのこころで生死を決める。

いまわたしのこころは、
生きることを望んでいる。
いまは。

明日は分からない、でもそれでいいじゃないか。
今、一瞬の積み重ねでしか生きていけないのだから。

まとまらない文章を最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。

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