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【随想】ミステリを読むことのすすめ

1.読書すると得をするよ

「○○しないなんて損してるよ」って云い回しが苦手だ。

 ○○しない人は、○○することにより生じる効果を体験し得ないため、それを損とは自覚しない。損なんて云われても、ほっとけよボケとしか思わないだろう。人になにかを推奨するなら、素直に「○○すると得をするよ」と云えばいいのだ。

 読書すると得をする。

 実は、読書する人には、”会話している相手が読書する人なのかどうか”が分かっている。私の場合、五分ほど会話すれば分かる。読書しない人は、気付かないうちに、一方的にそれを見破られている。

 なにが違うのかといえば、単純な語彙力や知識量ではない。それは読書以外でも充分に補える。読書によって決定的に変わるのは、話の組み立て方や意図の汲み取り方だ。

 読書する人同士にしか分からない意思疎通の感覚がある。端的に云えば、高いレベルで会話が成り立つ。それは互いの主張する内容が相容れない場合であっても話が噛み合う、すなわち建設的な議論ができることを意味する。

 なぜなら、書籍とは自分で読み進め、考えなければならない媒体であるからだ。よって知識や娯楽になるだけでなく、思考法の構築に直截的な影響を与えることになる。読書の真の意義とはここにある。

 文章として組み立てられた、他者の思考を読むということ。当然ながら、文章化の過程において、それはただ喋るよりも深く考慮された内容となる。これにじっくりと触れる機会というのは、日常生活ではまず望めない。

 しかし読書する人は、この機会をほしいままにする。あらゆる事柄を文章のかたちで理解していく習慣が、自らの思考についても同じように構築させるようになる。そうして根本の思考法が変わるのだから、自然と思慮深くなるし、物事を俯瞰的に見られるようになる。

 上述したとおり話すのが上手くなったり、ほかにも文章を書くのが上手くなったりというのは、結果のほんの一例でしかない。そもそもの思考の質が違う。そして、理屈ではなく感覚でそれができるようになるのだ。

 特に若いころの読書は、まさに自らの思考法が構築されていく最中にあることから、より影響が大きい。若いうちによく読書を薦められる理由がこれだ。歳をとると思考法は柔軟な変化が難しくなる。娯楽としてなら問題ないけれど、そのほかに読書から得られるものは若いころと比べて少なくなる。だから、十代で読書しておくと本当に得をする。

 もっとも、若かろうとなんだろうと、無理して読んだって駄目だ。それじゃあ続かないし、あいにくと上述したような効果を得るには、数がすべてではないとはいえ、百冊や二百冊では全然足りない。

 結局、読書を好きになれるかどうか、面白い本に出逢えるかどうかなのだ。そこで私がおすすめする方法こそ、物語性のある小説――特にミステリを読むことである。

2.ミステリという大発明

 ミステリとはおおよそ、謎解きを主軸にした物語と定義できる。謎を扱うという点ではホラーも同じ性格を持つが、謎に対してその真実を希求するところにミステリの本質はある。提示された謎について、解決編が必ず存在するというわけだ。

 つまり、虚構の積み重ねから真実を描き出そうとすること。しかも、それが露骨に形式化されているという点に、このジャンルの独自性がある。それは制限的でなく、むしろ無限の可能性を持つ発明だった。

 謎解きという営みのなかに、作者はあらゆる観念を織り込み、物語として描くことができる。すなわち、まったくの自由状態では語ろうとしたところで散漫になってしまいかねない哲学や思想が、〈謎の提示―葛藤―解決〉というお決まりなプロットを用いることで、体系的にまとめ上げられるのだ。

 反対に云えば、どうしたって体系的にまとめざるを得ない。自分が提示した謎を自分で解くのだから、必然的に自己批判となり、自己言及となる。そうやって書かれる文章は自覚的だ。”答え”を出すことから逃げていない作品が出来上がる。

 物語というものは、なぜ生まれたのか。フィクションでしか描けない真実というものが存在するからだ。ノンフィクションでは語ることのできないそれを小説で表現するとき、ミステリという自覚的、それでいて知的遊戯としての娯楽性をも帯びたこの特異なジャンルは、まさに絶好のフォーマットと云える。

 そしてそれは、読書体験としても他とは一線を画すものとなる。「1.読書すると得をするよ」で書いた”思考法の構築への影響”が、ミステリにおいてはより顕著なのだ。『文章化の過程において、ただ喋るよりも深く考慮された内容となる』のが自覚的に体系化されているのだから当然だろう。その娯楽性とも相まって、読む側の吸収効率も段違いとなる。

 読書の真の意義――それを最も鮮烈に体験できるのが、ミステリというジャンルである。

 なお、ミステリはその自己批判的性格からアンチミステリ、自己言及的性格からメタミステリという小ジャンルを生み出した。両者は多くの場合、重なり合っている。たとえば三大奇書と呼ばれる『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』『虚無への供物』は、それを比類なく先鋭的に象徴している。

 ミステリに向き合っていけば、そうなるのが必然である。したがって、三大奇書なんていうけれど決して邪道な作品ではなく、正真正銘のミステリとして読むのが正しいだろう。三大奇書以降もアンチミステリ、メタミステリでは多くの傑作が生み出されている。私がそれらを大いに贔屓し、自らも意識的にそれを書き続けている理由がここにある。ミステリという文学形態の本領を最も発揮できるフィールドがそこなのだ。

 ゆえに読むことをいっとう強く薦めるのも、それらの作品である。

3.昨今のミステリ事情

 もっとも、いまやミステリは非常に広いものとなっている。広義のそれまで含めるためにあえて〈ミステリー〉と伸ばせば、その要素はあらゆるエンターテインメント作品に散見されるだろう。話題の小説、ドラマ、映画、それらの多くが〈ミステリー〉であって、この言葉は人々にすっかり馴染みのものとなった。

 パズラーやスリラーという大別が意識されることもなく、いっそサスペンスやホラーまで〈ミステリー〉に包括されて、人気を博しているのが現代なのだ。

 もちろん、ミステリの持つ娯楽性が通俗的かつ大衆的なものとして浸透しているのは素晴らしいことである。それは私が敬愛する、戦後のミステリ隆盛に努めた作家の多くが目指したところだ。

 ただし「2.ミステリという大発明」で書いたような、己が哲学や思想をミステリで語る作家は少なくなってしまった。これは寂しいことである。本来のミステリが持つ普遍的な文学性や批判性、その本質的精神を意識的に描き出す書き手は絶対に必要であり、読者にもこういう書き手こそを大事にしてほしいと思う。

 これは懐古趣味を意味するのではないし、エンタメ性なんか捨ててもっと小難しいことを書け・読めと云っているのでもない。そんなのは内向きに閉じることにほかならず、これもミステリの武器である通俗性や大衆性を放棄してしまっては本末転倒だ。面白くなければ、伝わらなければ意味がない。

 ミステリの本質的精神と抜群のエンタメ性は、両立できるのだ。

 謎解きという確固たる主軸に作者の哲学や思想を織り込み、虚構の積み重ねから真実を描き出すという営みを、通俗的かつ大衆的でエンターテインメントな物語に落とし込み、無類の面白さを持つ小説に仕上げること。

 傑作ミステリはそこにある。まったく新しい、それでいてその神髄をとくと味わうことができる、最高の小説がある。

 まあ迷ったら私の小説を読んでいただければよいです。夜露死苦。

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