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るったんの事から、ReLの事、物語の事

前回
https://note.mu/mayonoenoe/n/n6bc5889915cc

またTwitter でだらだら語ったことの再録。
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るったんのことイマジナリーフレンドって言ったけど、イマジナリーフレンドと定義するとわかりやすい、妥当だろう。という意味で正真正銘自立型の人格ではないので、いわゆるうちの子なんだと思います。ただ私はうちの子って言い方が好きじゃないので、フレンドっていう距離の方が肌身近い。

“うちの子”
っていうのは、オリジナルの物語を作ったりしている創作界隈の言葉で、
自分の生み出したキャラクターを、娘、息子、のように想い定義する言葉です
“うちの子”と”よその子”を、交流させましょう。っていう感じの企画がPixivなどで盛んで、お互いの創作キャラ同士を交流させる創作の遊びがあります。

具体的には
他者の創作キャラクターを自分の創作キャラクターと掛け合わせた漫画を書いたり、同じ世界観を共有して、漫画を描きあい一つの物語にしたりとか、そういう交流だと思います。(私もあまり首を突っ込んだことがないのでわからないのですが)

自分のキャラクターを持つ、という定義も結構広くて、
なりきりチャットのために自分を憑依させるキャラクターから、自分のオリジナルの物語のためのキャラクター、テーブルトークのためのキャラクターなど、沢山、さまざまな方法と手段でキャラクターは作られているのです。

キャラクター同士の交流ってなんだか奥が深くて、厄介な話で、うまくいけば素晴らしい交流なのですが、キャラクター同士の恋愛の破綻で、その持ち主の人間が自殺してしまうということと珍しいことではないと聞いたり、なかなか、なかなかなのです…。

創作といっても本当に種類があるので、本当に奥深いですよね。
私がるったんは友人だとしたいのは、私の憧れる形にるったんがあってそれはもう幼稚園の頃から朧げにあった形が二十歳過ぎてようやく固まったので
やっと出会えたという気持ちだからかなと思います。

“うちの子”
として自分以下と内包してしまうのではなく、
真夏のひと時だけ出会えた、尊敬する特別な友達のような気持ち、憧れ、
そういう想いのベクトルを、るったんは私から受けているから、友達と呼びたいのです。
(物語のキャラクター性とはちょっと違うのだけれど)

物語の方は、自分の悪い感情とか、辛いことをエネルギーにしてて、
ルサンチマンでつくってたので、お話自体はとても厳しい話なのです。
お話の中というのは、その中での力関係とか、役割とか、バランスがあるので、私の憧れをそのまま反映したりはしてないから私が共に想うるったんとは違う姿をしています。


るったんの原型というのはアニメキャラクターからパーツを拝借して作った私の理想のカッコよくて可愛い女の子で、私の物語の世界でかっこよく活躍する子で、最初の子はあゆみちゃんという名前で、くじら島に住んでて、海辺で暮らしててある日ワープしちゃう話をつくってました。

最初から内在している、ここではないどこかの、という感覚だったから、イマジナリーフレンド?ではないと思う私と話してないし。
色々漫画とか物語に触れるたびにキャラクターの理想の形は変わって、世界観も広くなって様々な話が生まれては消えてを繰り返して今に至る。

ReLという話ができる前は、「水たまりの向こう 」という話を考えてて、内側に閉じる異世界に流れ着いた現代の少年が帰りたいけど帰れない鬱屈した話で、でも周りには少年よりも複雑な事情を抱えながら明るく生きている人たちがいる。でも少年はそれを学ばないまま話は終わる。という物語でした。

その時にるったんに近かったキャラクターは主人公ではなくて脇役の少年だったんですが、長いのではしょります。
るったんになっていくまでは要素も性別も容姿もいっぱい変わってたなと思う。

るったんとReLという話は成人以降に生まれたキャラクターと話しで、でも今までで一番長い付き合いの、今でもまだ消えないでいてくれる世界と存在なので、すごくすごく大事。死ぬまで抱えていたい世界と物語と存在です。

ReLという話は
生きているということに意味がないこと、特別な生い立ちや生まれに価値が発生しない事が、キャラクター達のテーマと障害であり、私の抱えるルサンチマンです
キャラクターたちは輝かしい生まれた意味を、その人生において無くしてしまうのですがでも人間ではない彼らはそれでも死なない。

生き続ける安楽のなかで、証明されない価値と経歴、その中で、なんのために生きるのか。
己とは何か。
そういうことがテーマです。

答えはそれぞれ、出たり出なかったり出たと思ったり、色々です。
でも彼らは多分決して不幸せじゃないんです。
死なないし、
そういう真綿の苦しみです。

るったん達の旅も絵として描いたら案外楽しそうにしてて、
もっと苦しそうかなと思ったんだけど、
なんだ楽しいんだ、
己の存在に、価値に、苦しみながらも、楽しくいられる。
よかったよかった。

ReLという世界では、彼らの経歴を、世界が揺らぎそうな要素をもたせながら全くそれを無効化させるようにしています。彼らは世界を壊しもしないし、救いもしない、もしできたらきっとその方が彼らは輝いただろう。そうはならなかった安穏と、空虚さを抱えて、あなた達は生きなさい。
私のように、

物語を作るという性質においての私とキャラクターの立ち位置は、愛でる時のロジックとは、異なるのです。
苦しみを苦しみによって昇華するタイプのストーリーディングだから、キャラクターが過酷な目に遭ってるので、友人に顔をしかめられたことあります。ハッピーエンドにしてあげないの?って

ハッピーエンドってなんでしょう?
キャラクターの性質によってそれは異なる気がします。
私の物語においてのハッピーエンドとは、それぞれのキャラクターがその人生の課題を片付けることだと思います。
ある人はそれが死を持ってなされ、ある人は自身の消滅を持ってなされた。
一見バッドエンドのように見えますが、彼らはそれを望んでそうしたので、彼が自身にとっての最善だった。
と、そう思います。
ただこれはReLという物語においてのみの、性質ですが。

ReLというお話は、終わりの先を行くお話なので、意味をなくすまで、のストーリーの先はドラマではなくなります。
るったんたち、主人公たちに物語の終着点がありません。彼らが永遠を生きる存在だから。
でもそこに本質がある。そこが本当の部分である。
と私は思っています。でもドラマにならないから筋書きとかも思い浮かばないという大きな罠でもあり、小説や漫画にもできない理由の一つなのかもしれないと考えています。

ReLという話についてはこちら
https://storyofrel.jimdofree.com/


#創作 #物語 #私のパートナー #イマジナリーワールド #イマジナリーフレンド #うちの子

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