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「どっちでもいい」は、人生で一番大事なスタンスかもしれない

子どもがカンニングしている。

もう少し正確に言うと、答えはわかっているけれど、「その答えで合っているのか、そもそも自分がやろうとしていることが合っているのか確認したい」という思いから、

プリントを解いている際や先生からの指示を受けて行動する際に、左右、後ろの席の子たちをキョロキョロと見回してしまうようだ。

これは、乳児期の頃から見られた傾向で、絵を描くにしても、料理をするにしても、自信を持ってできると思えるとき以外には「やって」とせがみ、親がやって見せてから本人も取り組むことが多かった。

そのたびに、「間違ってても、またやり直せばいいんじゃないの?」と伝えていたけれど、慎重な性格なのか、間違えるということを過剰に避けようとしていた。

親の反応を気にしすぎて行動できずにいるのであれば、改めたいと思い、私は口出ししないようにしている。

しかし、そもそも最初の一歩を踏み出すように促すのはかなり難しい。

保育園では「慎重な性格なので、危ない遊び方はしないし、優しい子」と先生からは言われており、確かに幼児期特有の向こう見ずな行動をしているところは見たことがない。

公園などでも競うのが嫌なので誰も遊んでいない遊具もない場所で遊ぼうとするし、並んでいても横入りをよくされている。

大人でも同じだ。

「間違えてもいいし、失敗してもいいのだから、どんどん挑戦して会社を変革するアイデアなどを出すように」などというメッセージを経営層は発する。

しかし、ほとんどの人は、やらない。
出来ない、と言った方がいいのかもしれないが、
ガンとして動かない。

なぜか?

失敗したら、どうなるかわかっているからだ。
挑戦したこと自体を褒められることはほとんどなく、「余計なことを言い出して、"上手くいくわけない"のに、やっぱり失敗した人」という烙印を押される。

ある人から聞いた話だが、大学の研究室では、年々削られる研究費をなんとか得るために、出来ない目標は書かず、"達成できる目標をどう書くか"に知恵と時間を割いているそうだ。

会社の個人目標も同じで、出来ない事を書くと、出来なかった時にマイナス評価になるので、給与に響く。だから、今やってることを表現を変えて目標として仕立てて、期末の評価面談に備える。

こうなると、一体なんのための目標なのかと思えてくるのだが、"結果"を求める仕組みである以上、多くの人がそうした考えで小さく行動を見積もるのは合理的な意思決定だと思う。

そういう社会の環境は、子どもにも少なからず影響を与える気がする。

親が自分で確実に出せる結果を目標にして、達成することがゴールになっていることが、子育ての際に滲み出て、子どもが「出来た時にだけ褒める」という報酬を与えてしまう。

私は幼少期に親から褒められた記憶がほとんどない。叱られることの方が多く、その理由も説明されないため、いつもビクビクしていた。

高校生の頃にアルバイト先のおじさんから、
「まよっこさんは、いつも何かに怯えているように見える。自信がなさそうで、かわいそうになるくらいビクビクしている」と心配されたことがある。

だから、親から褒められることで自信がつき、堂々と振る舞え、間違いも恐れず挑戦できる人に育つのだと信じていた。

しかし、カンニング的な子どもの行動から、それは間違っていたのかもしれないと考えている。

確かに、昨日出来なかったことが今日出来たら、べらぼうに褒めてしまう。

例えば、ブロッコリーを食べられなかったのに食べるようになったとき。
褒められたいから、無理して食べていることもわかっているが、口にすら入れない状態から苦いとか甘いとかまずいとか感じて、そのうち段々とほめなくても食べることが普通になるのではないかと思っている。

慎重な性格というのは、危ないことには近寄らないけれど、やったことがないことにも近寄らないという意味でもあるのだ。

やる前から「難しい」「つまらない」「(やってないけど)やりたくない」という判断をしてしまい、うちの子の場合、一度決めたら絶対やらないので、その早とちりをほどくためにも、「とりあえず、やってみる」の土壌に乗せたいと親としては思う。

その解決法は「プロセスに対して褒める」というアプローチになる。
こんなこと、言われなくても知ってるし、ビジネス書でも育児書でも読んでいる。

でも、結局は出来ていなかった。
知っていること、わかっていることと、実際にやることには大きな溝があると思い知らされた。

喉が渇かなければ水を飲めないのと同じで、子ども自身が自分でやることに意味を見出し、間違えても間違えなくてもどっちでもいいのだ、と腹落ちしなければ解決しない大きな問題にぶつかってしまった。

素直でなんでも言われた通りにできる聞き分けのいい子もいるので、そうであれば、ある意味では「あぁ、そうなのか」と受け取れるのかもしれないが、そこには自我が働き、

「褒められない=やっても意味がない」と、判断してしまっている節がある。

いきなり褒めなくなると、それはそれで不安になる気もしており、やったことを褒めるように変えていこうと思うが、なにぶんこちらも、プロセスを褒められた経験がほとんどないので、どうしたらよいのかわからない。

褒めるという行為が諸刃の剣になってしまった。

しかし、小学校受験というタイミングだから、偏差値などはあまり関係ないが、中学受験などは結果でしかないし、偏差値という残酷な評価システムによって自分のプロセスを含めた努力が判断されてしまう。

私は中学受験をし、偏差値に傷つけられ、自分の努力だけではどうにもできない世界があると小学校6年生の時点でハッキリ認識した記憶がある。

高校以降で上位校出身の人々に出会う機会ができ、友だちになったり、大人になって会社の同僚になったりした。

自分の偏差値では到底、手も届かないような人たちだ。「こんな偏差値の高い結果を出せる人というのは、どんな人たちなんだろうか」と思っていたし、一生関わることがないと思っていた。

もちろん、みんなすごく優秀だし、地頭がいいのを仕事を通じて感じる。

しかし、そうは言っても、普通にみんな同じ人間だなとも思う。昔は御三家に行く人は宇宙人だと思っていたから。

何が違うのか。

勉強した時間ではない、というのは、この人たちを見てわかった。

おそらくだが、自分をありのまま受け止める力が高いかどうかではないかと思う。

つまり、間違えても間違えなくても自分の評価は同じなんだと自分自身で思えているということだ。

だから勉強が捗るし、言われたことも受け入れられるのではないか。

自分は特別だけど、特別じゃない。
自分はできることもあるけど、できないこともある。自分はいいヤツだけど、嫌なヤツでもある。

こういう当たり前のことを受け止める力。

即効性のある方法はないと思うが、せっかくの機会なので、ぶっちゃけ「どっちでもいいよね」と腹落ちしてもらえる接し方をしていきたい。

そして、それ以前に私自身が、どっちでもいい、というスタンスで生きられたらと思う。



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