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現代アートが「よくわからなくて苦手」から「面白い」に変化した話

「現代アートって抽象的すぎてよくわからない」
「知識や教養のある人しか楽しめなさそう」
「正直、あんまり美しいとも思えない」

数年前までは、そんな風に敷居が高くて自分とは無縁な趣味だった。

けれど今は、どこかへ出かけるたびに美術館に立ち寄ってみたり、駅や広場や公園などにある今まで大して気にも留めなかったオブジェを改めて観察してみたり、ステイホーム中でもGoogle Arts & Cultureで気になる作品を見つける遊びをしてみたり。

「現代アートって面白いんだな」と思えてくると、日常生活における些細なものを興味深く感じられたり、自分自身をすごく大切な存在に思えたりして、人生における強力なパワーとなる。

日々、洪水と化した大量の情報に晒されながら、何が事実で/何が事実でないのか、何が自分にとっての価値で/何が他人にとっての価値なのか、そんな漠然とした不安を感じる人にこそ知ってほしい、という思いで本記事を書いてみた。


「よくわからない」現代アート

初めて現代アートを美術館で観たのは、学生時代に家族と訪れた「金沢21世紀美術館」だった。

どんな作品や展示を観たのかは、全く覚えていない。
当時の私はアートなど興味も知識も一切無くて、家族に連れて行かれただけ、主体性は皆無だった。

唯一記憶に残っているのは、屋外のカラフルなオブジェくらい。

「カラー・アクティヴィティ・ハウス」金沢21世紀美術館

子ども用の遊具みたいなものかな、と思った。
少し気になって中に入ってみたりしたけれど、暑い日だったので光が眩しくて、すぐ日陰に移動してしまった気がする。

私の現代アート初体験は、何も始まらないうちに幕を閉じた。

現代アート=何でもアリ?

数年後に、現代アートと再会を果たした。
上野の東京国立博物館で開催されていた「マルセル・デュシャン展」にて。

これもまた、人に誘われて連れられた形ではあったものの、現代アートの創始者とも呼ばれる有名なアーティストと知って、事前に予習をした。

デュシャンの有名な代表作は、上記の「泉」と呼ばれる作品。

なんと、市販の便器にサインを書いただけ。
既製品だから手作りではないし、ところどころ黄ばんだ便器は美しいどころか汚らしく、もはやアートと呼べるか怪しい。

けれど、まさに「これってアートと呼べるの?」という「問い」こそが、この作品のメッセージなのだ。

それ以前の「アートとはこういうものだ」という既成概念を打ち破る意味で、「泉」は画期的なアートと解釈されて話題を呼んだ。

というのが、事前に予習した内容だった。
(なお、実際のところ上記の理解はやや不十分と思っているけれど、あくまで当時の私による理解はこんな感じだった)

そして上野で、実際に展示されている「泉」を目にした。

ミュージアムに展示されていれば、場の効果もあって、便器とはいえ「アート作品らしいオーラ」を纏っているのでは?と期待した。
けれど、やはり便器は便器だった。

残念なことに、特に感動は無かった。
それは、私はデュシャンがアートの既成概念を打ち破った後の世界に生きているから、かもしれない。
本人がアートだと言い張ればどんなものでもアートになり得る、つまり「アートって何でもアリだよね」という認識を持っている人は多いと思う。

「たとえ既製品であっても、視覚的に美しくなくても。これがアートだと言われれば、まぁ、アートなんだろう。でも、どんなものもアートになり得るって、逆になんかちょっとつまんないような。」

それが「泉」に対する私の感想だった。
「泉」を見て既成概念を打ち破るどころか、「アート=何でもアリ」という自分の内側にあった既成概念を再確認したに過ぎなかったのだ。

今思えば、あの時「どんなものでもアートになり得るってちょっとつまんない」と感じた心の機微、そう感じた理由にもう少し向き合っていたら。
「じゃあ自分はどんなものをアートだと思うのか?」と、自分なりの定義を考えてみたりしていたら。
それこそがまさしく「泉」の醍醐味だったのかもしれない。

北欧で出会った現代アート

それから少し時は流れて、北欧諸国を旅行していた時。
私は現代アートに再チャレンジする機会を得た。

数か国を周って最後に訪れたフィンランド・ヘルシンキで、少し時間が余って気まぐれに立ち寄ったのが、ヘルシンキ現代美術館。

北欧・フィンランドといえば、洗練されたデザインの国。
あまりにも「何でもアリ」すぎてちょっとつまらない現代アートとはいえ、なんだかオシャレな作品に出会えたりするのでは?と、勝手なイメージで胸を膨らませていた。

けれど。

「お前にはまだ100年早い」と突き放された気分だった。

無機質な空間に、ド派手な色をした巨大なモールのような繊維が垂れ下がる図。
この絵面に何らかの美しさを見出せない自分はやはり「未熟者」なのだろうか、と少し自信を失った。

(なんか、セサミストリートっぽい・・・が第一印象)

この日は一日の観光で600枚近い写真を撮ったけれど、その内このミュージアム館内で撮ったのはたったの10枚にも満たなかった。
それくらい、特に刺さるものが無かったというか、楽しみ方がわからなかった。

頭の中では「現代アート=何でもアリ」と認識しつつも、心の中では無意識的に「視覚的にわかりやすい美」を求めていたように思う。
たとえば、印象派絵画のような。
色彩調和の美しさに惹き込まれるような感覚を。

けれど、勝手に期待して勝手に裏切られた気分になった私は、「現代アートってよくわからないし、なんならちょっと苦手」と、また心に壁を建てることになった。

アートを完結させるのは誰か

そんな「ちょっと苦手」が「面白い」へと転換した契機は、とあるアート作品との衝撃的な出会いだった――わけではなく、図書館で見つけた一冊のビジネス書だった。

世界的パンデミックにより、しばらく海外旅行を封じられてしまった時期。
そのため、週末の度に図書館へ出かけては、好奇心の赴くままに古今東西の本を手に取り、未知なる世界との接点を保とうとしていた。

その中で「アート思考」の本が目に留まったのは、その頃ちょうど仕事で「デザイン思考」に関わる機会があったから。
似て非なるものとの対比を通じて理解を深めてみようと思い、手に取ってみた。

本文内では、「デザイナー」と「アーティスト」の違いについて、以下のように記述されている。

デザイナーが生み出すのは『解決策(答え)』であるのに対し、アーティストが生み出すのは『問いかけ』である。
(中略)
デザイナーは自分の外側にある課題に向き合う、それに対し、アーティストは自分の内側から湧き上がるものに向き合っています。

秋元 雄史『アート思考――ビジネスと芸術で人々の幸福を高める方法』

つまり、「問い」は「答え」をもって完結する、と仮定した場合。

デザインとは、存在する「問い」に対する「答え」であるため、デザインが出来上がった時点で完結する。

一方アートとは、アート作品が「問い」であり、そこに「答え」は存在しないため、作品単体では完結できない。

では、どうやって、誰が、アートを完結させるのか?

優れたアーティストの作品は、いつでも何かを問いかけてきます。その問いに対し、鑑賞者が想像力を働かせ、理解しようとする。それによって作品が完結するのが現代アートです。決して自動的に感性で感じれば良いわけではありません。「感じる」とともに「考えろ」という姿勢が、現代アートの鑑賞の基本です。

秋元 雄史『アート思考――ビジネスと芸術で人々の幸福を高める方法』

つまり、アートは私に向かって何かを問いかけていた。
上野で見た「泉」や、ヘルシンキで見た巨大なモールのようなものも。

けれど、私は「感じる」だけで何らかの答えを「考える」ことのないまま、作品との対話を終了していた。
相手から問いかけられていることに気づかず、無視して通り過ぎていた。
双方向のコミュニケーションが発生しなければ、アート作品は完結しないのに。

そう考えると現代アートとは、教養のない未熟な人間には無縁で、高尚で近寄りがたい、といった存在では決してない。
「考える」ことができる人間であれば誰とでもコミュニケーションを取ってくれる、意外と付き合いやすい存在なのではないか。

きっと彼らは、私が考えた私なりの「答え」を否定したりはしないだろうし。

「わからない」は苦か楽か

それ以来、どこかへ出かけるたびに美術館を探し、立ち寄るようになった。
現代アートに限定するとさほど多くないかもしれないけれど、ミュージアム自体は意外とあちこちにある。

また美術館以外でも、私たちは普段の生活の中で実はアート作品によく出会っている。
広場、公園、駅、商業施設のような場所で見かける「よくわからないオブジェ」や「よくわからない絵」も、当然すべてアートだ。

とある海岸沿い

今まであまり気に留めていなかったような、公共空間におけるアート作品(パブリック・アート)を改めてじっくり観察してみる。

その空間が持つ意味も踏まえて考えると、色んな「答え」が浮かんでくる。
どれが正解かはわからないけれど、別に正解を当てるゲームではない。
とにかく私は今、アート作品との対話を楽しんでいるのだ、と思うとドキドキした気持ちになる。

もちろん、色んなアートを観察している中で、「なんだこれ、全くわからん」といった作品に出会うことも多々ある。

以前であれば、そんな時は作品の横に書いてある「タイトル」「作者名」「解説」等を確認することで、「わからないという気持ち悪さ」を解消していたように思う。

けれど今は、「わからないもの」こそ貴重なのだと思うようになった。

私たちは「わからないもの」に接することで、思考が促されるのではないでしょうか。アート思考の本質とは、この「わからないもの」に対して、自分なりに粘り強く考え続ける態度のことを指しているのです。人工知能がすべての答えを出してくれる時代に必要なのは、それでもわからないものを理解しようとする、人間ならではの飽くなき知的好奇心です。

秋元 雄史『アート思考――ビジネスと芸術で人々の幸福を高める方法』

これを読んだ時にふと思い当たった。

私が仲良くしていた友人は、会話の中で私が「これってどうして○○なんだろう?」と素朴な疑問を口に出すと、すぐさまスマホで調べて「△△なんだって。」と答えを教えてくれた。

友人が答えを素早く教えてくれるとき、たまに引っ掛かりを覚えていた。

もう少し「わからない」ままでいたかったような。
という感覚だ。

基本的に「わからない」状態でいることは、ある種の苦痛といえる。
「わからない」ままだと落ち着かないし、ストレスが溜まるので、早く答えを知って解決してしまいたい。
その感覚はおそらく誰にでもあるし、もちろん私にもある。

けれど、GoogleやAIで調べれば色んなことがすぐわかる時代、だからこそ、心の底から「わからないもの」に出会い、「わからないもの」について思索して、「わからない」なりに答えを考えて楽しむことは、とても意味や価値のある精神活動なのではないか。

もともと私は、現代アートのことを「よくわからないから苦手」と感じていた。
けれど、わからないからこそ、相手の問いかけに対して真正面から向き合って考える必要があり、そんな真剣かつ純粋なコミュニケーションを通じて、何らか自分の答えを頭に思い浮かべてみる。

それは、ChatGPTや世の中の専門家やインフルエンサーたちが「これが正解です」と提示してくれる答えではなく、私にしか知ることができない、私だけの答えだ。

アート作品からの問いかけに、自分の力で返答を考える。
それを楽しむ感覚こそが、アート鑑賞の「面白さ」であり、権威のある他者から与えらえる「正解」に翻弄されやすい私たちが「自分自身」を取り戻す活動ともいえる。

おわりに

また気軽に旅行ができるようになったら、金沢の21世紀美術館に行って、あのとき上手にコミュニケーションできなかった彼らと、今度はきちんと対話を楽しんでこようと思う。

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