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神話になれないまま大人になった少年へ シン・エヴァ感想

シン・エヴァンゲリオン劇場版が終劇した。エヴァは私たちにとって何だったのか、その歴史を邂逅しながら、さよならの姿を見届けた先の景色について、語っていきたいと思う。

この記事はシン・エヴァンゲリオン劇場版を鑑賞した方向けの記事です。

以下、ネタバレを含みます。ご容赦下さい。


ハートに包帯を巻いた少女を追って、辿り着いた物語

エヴァとの出会いはいつになるのだろうか。それぞれの歴史の中で何らかの形で出会い、その構造にのめり込み、現実の世界の解釈の仕方を模索する事を放棄してでも、エヴァの世界を理解したかった時代があったのは、私だけではないはずだ。ネットの世界から、拾い集めたピースを、額縁のないキャンバスに並べ、点と線を繋げ、自由に構想しながら本当の答えを探し出そうとするというやり方は、私の心を掴んで離さなかった。後はみなさんの頭で補完してくださいと言わんばかりの不親切さで、これ程までに世の中が熱狂した作品を、私は他に知らない。難解な世界観、言葉、同じ歳くらいの少年少女。誰一人、本当の結末を知らないからこそ、夢中になった。ハートに包帯を巻いた少女達の底に眠る哀しみや、孤独、少年の弱さ、アイデンティティーの置き場所、相対する大人の残酷さと不完全さ。それらを現実世界に光を当てながら理解するため、作品を追いかけていた。

エヴァという体験を通して見た景色

エヴァには、様々な景色が刻まれている。少年少女だった時代の学習机の威圧感、音楽準備室から見た夕方の旧校舎が不気味だった事、深夜に毛布に包まりながら聴いたラジオ、カーテンの隙間から射し込む朝日に身体が動けなくなった日、ダサい体操着を隠すように姉の制服を着ていた事...。恥ずかしくてみっともない時代に、エヴァを通して知った感情は、記憶と共に刻まれている。大人も存外みっともなくて、同い年くらいの少年少女は同じような悩みを抱えていた。10代の頃に鑑賞した映画作品は他にも沢山あるが、それらとエヴァは異なる。エヴァは体験だった。鑑賞の先で、必ず、解釈の為にネットの中に飛び込み、ひとりぼっちの部屋の中で、一人ではない景色を見ていた。だからこそ、それは、体験として記憶されているのだ。

一緒に映画を見た彼らの幻影と現在地

私は今回のシン・エヴァンゲリオン劇場版を鑑賞する事を、とても楽しみにしていた。と、同時に、不安があった。時代は、アニメを鑑賞する人々を”オタク”と言う言葉で括り付けて、分類する事を辞めた。共通言語として、或いは帰属先、またはファッションとして使用される世の中に変容したのだ。誰しもが、他人よりちょっと詳しい事や、好きな事を所有していて、それを自由に開示する事が当たり前の世の中になった。これ程に時代が変化し、10代に積み重ねたエモーションを置き去りに、私たち、元、少年少女は大人になってしまった。その辻褄合わせで、良かったね、エモかったね、と、言ってしまえる老人になっていたらと思うと、エヴァを見て目を輝かせていた少女だった時代の自分に申し訳が立たない。だから、今の私として鑑賞すること、頭の中で記憶を捏造して良いものに補完しない事を決めて、映画館に足を運んだ。座席に座ると、嘗て、序破Qを一緒に見た人達の顔が思い浮かんだ。こんな風に、彼らも私の事を少しだけ思い出したりとか、するのだろうか。そうだったら嬉しい、と思いながら見た、隣の横顔が楽しそうでほっとした。

シンジの事好きだった。でも私が先に大人になっちゃった。

庵野監督の作品は、一つの場面や言葉に、幾つもの意味を織り込む手法が用いられる。冒頭では震災を彷彿とさせる状況の中に、人の手で光を当て、復興を完了させ、追悼する姿が描かれ、シンジの苦しみの中には、監督自身の苦しみ、第3村やゲンドウの過去には、監督の過去の風景が描かれる。大人になったアスカやケンスケ、トウジ一家の言葉や関係性には、今までの作中で大人の姿として描かれていたもののオマージュが端々に散りばめられ、そういった細かいディティールの解釈は話し出したらキリがない。それらはネット上で日々議論されているため、ここでは省略する。(全くサービスサービスされてないとか、わけわかんねーとか言いながら、伏線の回収場所を探し、考察し、やべえなと言いながら、芳しく難解な世界を解読するのだ。)

話は表題に戻る。表題の台詞は、最終決戦に向かう直前、アスカがシンジに送ったものである。アスカの言葉は紛れもなく、エヴァと共に、大人になりたかった、私たちの声だった。追いかけてきたものを置き去りに、私たちは大人になってしまった。そして、シンジの言葉から、Qでのアスカの拳の理由にも、エヴァと私たちの関係性が織り込まれていた事がわかる。作品を終わらせることも、続けることも選べなかった、その事へ対する世間からのプレッシャーを、監督自身、感じていたのだろう。シンジが14年後の世界で、置いていかれた事に絶望していたように、私たちだってエヴァと共に大人になれなかった哀しみを抱えていたのだ。それがエヴァンゲリオンという作品が制作される、私たちの世界におけるエヴァの呪縛なのかもしれない。

苦悩は共鳴する。それは希望である。

今作でシンジやゲンドウを通して描かれた、監督自身の苦痛は、あまりにもリアリティーが強く、壮絶な時間を感じずにはいられなかった。どれ程の苦しみの中で作品を制作し、終わらせることを選んだのだろうか。そのリアリティーは鑑賞する側の苦痛体験と共鳴し、私は自分の弱さと対峙するしかなかった。空白の数年の間、自分と同じように、作品も、苦しみの中にあったのだという事が、私を少し、軽くした。しかし、同時に、そんな苦痛の中にあっても、足を進められる程には、正常に判断でき、感情より、責任が先行して行動を選択できる程度には、大人になった、自分の姿に気づかされた。本当はもう少し、この世界を続けて欲しいとも思った。しかし、私たちは物語の結末を知らないまま、神話になれないままで、大人になってしまったのだ。「なんでみんな、こんなに優しいんだよ!」というシンジの叫びに対し、アヤナミ(仮称)が「碇くんが好きだから。」と答えるシーンでは、ああ、庵野監督はこうやって、自分を思いやるひとの気持ちに気づき、立ち上がったのだと、思わずにはいられなかった。現実世界の監督自身の立ち直りまでの投影である。そして、庵野監督は、終わらせることを選択した。ならば、私たちもエヴァの呪縛から解き放たれ、最後まで見届けなければならない。

さようなら、全てのエヴァンゲリオン

エヴァは繰り返しの物語である。作中ではそれでも縁は残るだとか、縁が導いてくれるだとか、”エン”という単語が象徴的に使われていた。これは”縁”であり、”円環”の”エン”でもある、ということは、カヲルの言葉からも推測できる。そして、今作では、”さようなら”を、”また会うためのおまじない”と定義した。これらの言葉を、一度、作品の構造の話と切り離して考えると、エヴァの中で描かれたものの先でまた会える、という所に落とし込めるのではないだろうか。庵野監督のこれからの作品、そして、エヴァに影響を受けた誰かが紡ぐ物語の中、エヴァの存在しない世界で、私たちはまた出会える。それらが円環を成して繋がっていく限り、縁は途切れない。他者の心への恐怖、親と子の関係性、子供が大人になる姿、エヴァの世界の罪について...それらを見届け、エヴァの呪縛から解き放たれ、創作に救いを求めてきた私たちは、現実に光を当て、進む。だからこそ、私たちの希望はラストシーン、声変わりをしたシンジの言葉に収束されるのだ。


行こう。


少年だった彼が、大人になり、進むのなら、

私たちは、大人になった姿で、また、出会えるはずだ。

ありがとう。全てのエヴァンゲリオン。

さようなら、全てのエヴァンゲリオン。


神話になれないまま大人になった少年たちは、それぞれに正しいと信じた旅路の果てで再会を祈り続ける。



(おまけ)やっぱり宇多田ヒカルはいい

エヴァの劇中音楽の素晴らしさは言葉には戻せない程、もう、見て、聴いてくれ!!!とした言えないものだが、敢えて言わせて頂くと、宇多田ヒカルはやっぱりいい。ここでは私の好きな宇多田ヒカルに関する詩の一節をご紹介しておく。

「宇多田ヒカルを聴いて、思い出すのが校庭の匂いなら、きみの幼少期は最高なもの。」きれいな人生/最果タヒ

ちなみに今季のアニメ、不滅のあなたへの主題歌も最高なので、(アニメも最高)ぜひ、聴こう。聴いてください。


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