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「弱者」を「弱者」のままにしていちゃだめだろ。って話。(2019 11 02)

「今まで出来たことができなくなる」ってすごい自尊心が傷つけられる。
ケガでも、病気でも、被災でも何でも同じじゃないかと思う。
そしてそのときに周囲ができることを、履き違えてはいけないように感じる。

たとえばケガをして、手が動かなくなったとして。
毎回毎回、ずっとごはんを食べさせてもらったとして。
それがずっと続くのって、幸せだろうか。
「食べさせてあげてる」人は、満足かもしれない。
でも私は、すごく嫌だった。

働けなくなったとき、惨めで惨めで仕方がなかった。
お金も欲しかった。住む部屋も欲しかった。おいしいものも食べたかった。
でも、いちばん欲しかったのは、「働くこと」だった。

「可哀想」だと言われることも。
「話なら聞くからね」と言われることも。
「困ったらお金を貸すよ」って言われたりして。
どれも有難かったけど、惨めだった。

「病人」は一時的かもしれないけれど、ずっと続くと「障害者」になる。
確かに、配慮がないと生活は厳しい。
でも、「障害者」というカテゴリに分けられ、ずーっと特別扱いを受けるのは、とても苦しい。
「普通の人」で構成された世の中に、自分の立ち位置はもう無いかのように感じる。

それって、どんな種類の障害であっても同じじゃなかろうか。
もしかして、被災者と呼ばれる人も同じじゃなかろうか。
もっともっと、同じ感覚に苦しむ人はいるかもしれない。

ケガをしたら、必要なのはリハビリだ。
そして、治らないのであれば、「治らなくてもできること」を探せばいい。

ずっと病室から出られなかったら。
誰かにおぶってもらってでも、外に出られる喜びは計り知れないだろう。
でも、自分の足で歩み出せたら、おぶわれるよりも何倍も嬉しい。
ただし、足がなくとも、起き上がって、車椅子に乗り、自分の手で車輪を回し外に出れたら、それだって嬉しいんじゃないかと思う。

幸せって、自分の手で掴むものだ。
手で掴めなければ、足でもいい。身体まるごとで掴めばいい。
何にしたって、自分の力じゃないと得られない。

当事者でないと思うなら。
助けたいと思うなら。
するべきことは、「食べさせてあげる」ことではない。
そばにいること。「あなたならできる」と励ますこと。
どうしてもできないとしても、一緒に前へ進むための方法を探すこと。

だから、支えるしかない。
私たちがすべきことは、できないことを「代わってあげる」ことではない。

ずっと気を張っていたとき。明日が真っ暗だったとき。
根拠が無くても「大丈夫だよ」と言われた時の安堵感。
それって、他者にしかできないことだ。
だって、自分で自分を奮い立たせるのは限界がある。
助けるって、きっと、そういうことだ。

そんなことを、いつも忘れてないか?って、私自身に問直していたい。

(共にあろう、共に歩もうとした時点で、「当事者」となるのかもしれない、と思う。ただし、共に歩むというのは同じ未来を見ることではあったとしても、同じ道を行くことではないのだけれど。

その時点において、ただ恵まれているというだけで、自分は当事者ではない、自分は支援する側だ、と思ってしまうのであれば、私はずっと障害者でいい。とすら思う。)

あ、いつもどおり、まとまらないや。。

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