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【コモンの再生】内田樹ーこおるかもの読書ノートVol.04
こんにちは、こおるかもです。
今回の読書ノートはこちら!
ぼくは内田樹先生の著作が大好きです。時々とても難しい話にもなりますが、この本は全体的に軽めの感じで書かれており、とても読みやすい本となっています。
また、この本を取り上げた理由は、タイトルにあるように、「コモン」ということがテーマになっているからです。これは、読書ノートVol.01で取り上げた斎藤幸平さんの「人新世の資本論」からのつながりで理解していただけるととても良いと思います。
また、序盤に「共同主観的な主体の消滅」という話もでてきます。これも少し難しい言葉ですが、読書ノートVol.02でとりあげたサピエンス全史における「虚構」という言葉とほぼ同義です。そちらも参照したうえで理解していただけると幸いです。
それでは前置きが長くなりましたが、本書の読書ノートを公開していきます。
コモンの価値
コモンの価値とは、それが生み出すものの市場価値の算術的総和には尽くされません。
それよりも、みんなが「いつも、いくらでも、いつまでも」使えるという気配りができる主体を立ち上げること、そのことにコモンの価値があるのです。
ここでいうコモンとは、水や農地や資源といった、かつては誰もが「いつも、いくらでも、いつまでも」使え、地元のコミュニティによって温和に管理されていたものを指します。
それが近代において、資本主義経済の下、商品化されたり、ブランド化されたりすることで、「コモン」ではなくなってしまった、というのが、本書の出発点です。
囲い込みによって失ったもの
資本主義経済と共にイギリスで始まった囲い込みは、共有よりも私有を推し進めた。
その結果、「私たち」と名乗る共同主観的な主体が消滅した。
もともとそんなもの、「共同幻想」なのだから、誰も困らないと思っていた。
しかし実際には、伝統祭儀や生活文化が消え、相互扶助の仕組みもなくなってしまった。
囲い込みとは、17~18世紀イギリスにおいて起きた、農民が農地を追い出されて都市労働者となった社会現象のこと。当時、毛織物業の需要が世界的に高まったことによって、封建領主が農業から牧羊に切り替え、安い地代しか支払えない農民を追い出した。(「羊が人間を食べている」と表現された)
これにより、追い出された農民が都市へ大量に流入した。この市民は、土地も持たず、自らの労働力を売ることしかできない、「労働力資本」となり、資本家から搾取されるようになった。
しかしここで重要なのは、この囲い込みによって、中世以来の封建主義的でローカルな文化や、相互扶助的な共同体が消滅してしまったことであると内田は指摘している。
国家は市民が身銭を切って作った人工物である
日本では、政府は「お上」であるが、欧米では「公共」である。
ジョン・ロックも、トマス・ホッブズに代表される「社会契約論」が示している通り、国家は自分たちが作った人工的な装置に過ぎないことを述べている。
だから、文句があったら反乱を起こす権利があると当然考えている。
しかし、日本では市民革命をしたことがない。江戸時代の「殿様」が明治に「天皇」になり、敗戦後は「アメリカ」にシフトしただけである。
日本では、自分たちで「公共」を立ち上げた歴史的記憶がない。だから議論が立ち遅れているのである。
アメリカでの囲い込み:ホームステッド法
アメリカでは、西部開拓に必要な労働力を集めるために、国有地に5年間定住すれば、私有化できるという法律、ホームステッド法ができた。
これが功を奏して、ヨーロッパから何百万人が移住し、西部開拓が劇的に進んだ。
しかし、このホームステッド法のせいで、西部にあった「コモン」が全て私有化した。これはアメリカ版の囲い込みであった。
日本での囲い込み:1964東京オリンピック
日本では囲い込みに相当するものはなかったのか?
64年の東京オリンピックはまさに囲い込みだった。多くの建築事業によって、誰のものでもない場所が私有化され、子供たちの可動域が一気に狭くなった。
しかし今となっては、都内は空き家だらけであり、不動産は投機売買ばかりである。
そこで、逆ホームステッド法を提案したい。
つまり、私有である建物について、一定期間誰からも所有権の申し立てがなければ、そこを公有とする。私有を公有に戻すのである。
公有化したら、誰でもそこに住めるようにする。そして5年間住んでくれたら、その人に無償に近い値段で払い下げる。
ベーシックインカム論
ベーシックインカムの成否は、制度設計の出来不出来によって決まるのではない。
福祉制度で社会的弱者を保護することは良いことだが、それで受益者が「公益で養われていることに屈辱感を覚えること」を制度的に強制されるとしたら、そんな制度はないほうがマシだ。
社会的流動性の乏しい社会では、福祉制度はただの「施し」にしかならないのである。
つまり、福祉制度とは、次の世代にチャンスを与えるものでなければならない。
ベーシックインカムを含めあらゆる社会福祉制度は、二世代がかりで成果を考量すべき制度だと思います。
ベーシックインカムとは、近年(といってもすでに下火のような感じもするが)話題となっている、新しい社会保障制度で、すべての国民に最低限の生活費を公費で支給する仕組み。制度としては、年金、失業保険、生活保護などを包括し、それらを代替するものとして設計されている。社会実験として外国では試験が進んでいる。気になる方は落合陽一の「日本進化論」などを読んでみてください。
しかしここで重要なのは、一度ベーシックインカムに頼らざるを得ない状況に陥った国民が、次の世代の自助努力で挽回できる社会であることが条件であると内田が強く訴えていることである。そうでなければ、それは一種の屈辱的なカースト制度にすぎない、ということであろう。
ということで読書ノートは以上ですが、本書はエッセイみたいな体裁を取っているため、話題があまりまとまっていません。
最後に、簡単にこおるかも的要約を書いておきます。
こおるかも的要約
コモンの真の価値とは、それを管理したり、自主的に相互扶助する「私たち」と呼べる主体的共同体を立ち上げる力をもっているということである。
しかし、そのような共同主観的な共同体が、イギリスでは農業から牧羊への転換による農民の追い出しによって、アメリカではホームステッド法によるヨーロッパ人の流入によって、日本では1964年東京オリンピックによる都市開発によって、消滅してしまった。
特に日本では、市民が自ら国を立ち上げた経験が乏しい。江戸時代の殿様、明治時代の天皇、そして戦後はアメリカにシフトしただけとなっており、国が「お上」として存在してしまっており、「公共」という概念が弱い。
そのため、世界ではベーシックインカムなどの新しい社会保障制度が議論されているが、日本では立ち遅れている。
いかがでしたでしょうか?
考え方は様々ですが、ぼくはこの本をきっかけに、「公共哲学」という分野に興味を持つようになりました。
今後、公共哲学についての読書ノートをいくつか公開していく予定です。そちらも楽しみにお待ちください。
ありがとうございました。
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