猫を棄てる 父親について語るとき 村上春樹
こんにちは、こおるかもです。
今回の読書ノートは大好きな村上春樹さんのエッセイから。
村上さんは、小説以外にもエッセイを大量に書かれていて、一昔前はアンアンで連載をもっていたほどです。
そんななか、村上さんがこれまでほとんど語ってこなかった父親について、戦時中のかなり入念な事実確認を紐解きながら、村上さんご自身にとって父親がどんな存在であったかを赤裸々に語っています。
ちなみにタイトルの「猫を棄てる」とは、ちょっとショッキングなタイトルですが、実際にはかなりほのぼのとした父親とのエピソードで、まったく怖い話ではないので安心してください。
短いエッセイなので、ぜひ興味のある方は手に取ってみていただけると嬉しいのですが、村上さんが、どういう気持ちで、父親が若いころに戦争を経験したこと、そしてその後、戦争体験についてはほとんど何も語らず、そして最後まで決して良い親子関係とはいえないままに、亡くなっていったこと、そういうことをどう受け止め、言葉にして、ここに残そうとしたのか、その思いに馳せているだけで、僕自身も何か大事なものと向き合うことを促されているような気がしてきます。
ただ、今日ぼくが紹介したいのは、このエッセイの最後のページ。
引用するので、ぜひゆっくりと味わってみてほしい。
この文には、村上春樹という小説家の、すべての作品に通底するテーマの潮流がはっきりと見て取れる。
それは例えば、
仏教的な死生観を想起させつつ、しかしそこにすがっていくわけではない毅然とした姿勢。
ニーチェ的なニヒリズムを受け止めつつ、それを物語の力で乗り越えていこうという決意。
人間社会におけるシステムと個人という、普遍的なテーマを小説家として引き受ける覚悟。
ぼくは思うのだけれど、村上さんはこの文章に、彼自身がその応答としての「一滴の雨水の責務」を表明し、自分の残りの人生をかけて生きていく思いを込めたのだと思っている。
ぼくにももちろん、父親はいる。
そしてもちろん、思うことはたくさんある。が、今はまだ書けない。
そして去年、父親にもなった。
ぼくは何を受け継いで、何を残していけるのだろう。
実はぼくは、この文章からちなんで、娘の名前をつけた。
直接的に取ったわけではないので推測はできないけれど、まずは僕自身の思いをひとつ、受け継ぐことができたのではないかと思っている。
(ちなみに正確には、妻が全く別の由来から名前を決定したものに、ぼくが勝手に意味を後付けしただけではある)
それともう一つ。
ぼく自身、物語の力をとことん信じている。
大きな物語を失ったこの世界では、各自が己の信じるの自由を際限なく求め、それぞれの正義を主張する。
ヒューマニストたちは、人間性を信じるあまり、神になろうとしている。
哲学者たちは「普遍的な人間性」を追い求めて、袋小路に迷い込んでいる。
しかし、マイケルサンデルが言うように、どんな文化的背景にも侵されない「負荷なき自己」など存在しないのだ。
ぼくはそういう視点から、物語から滋養をくみ取りながら、公共哲学や倫理学に取り組みたいと思っている。これはある意味でぼくのライフワークであり、村上春樹さんから個人的に、勝手に、一滴なりの責務として受け継いでいきたいと思っていることだ。
その勝手なアウトプットの場として、このnoteを活用していることを読者の皆様には申し訳なく思うとともに、少しでも読んで何か思うことがあれば、一緒に考え、学んでいけたら嬉しいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
上記でリンクを貼った本は以下のものです。ご参考まで。
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