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映画『フリークスアウト』の唯一無二な“個性”の話

(※本記事は映画『フリークスアウト』という芸術作品を語るに際し、映画のキャラクター達が持つ属性である、いわゆる奇形・障がい等に触れています。
読み手の方の感性によっては、私の言葉選び等により不快感を与えてしまうかも知れませんが、私個人として、差別的意図は無いものであり、また、フィクションの中で消費される娯楽的パーソナリティとして捉えているわけでもありません事をご了承下さい。

また、あらすじ紹介の後、警告文を挟んでネタバレ有感想・考察となります。)

第二次世界大戦下、イタリア。
小さなテントに集まった客達を楽しませる、たった5人のサーカス団がいた。
手品が得意なユダヤ人の老団長「イスラエル」が率いるのは、
すさまじい怪力を持つ多毛症の大男「フルヴィオ」。
子供のような純粋さのまま大人になった磁石人間「マリオ」。
虫達を自在に操るアルビノの青年「チェンチオ」。
光のような強いエネルギーを宿す少女「マティルデ」。

優しいイスラエルは父親のように、社会で暮らすには難しい“個性”を持つ4人を受け入れ家族のように身を寄せ合いながら、各々の能力で人を楽しませるサーカス団「メッツァ・ピオッタ」として各地をまわっていた。

そんな彼らの暮らしにもやがて、戦争が翳りを落とし、破壊していく……。


超人サーカス団VSナチス・ドイツ

映画館のフライヤーコーナーで、こんなインパクトあるキャッチコピーを目にしたのは冬頃。今年の頭だった。
前述のパワフルでトンデモなキャッチコピーと明るい色使いのフライヤーを手にとり、私はこの映画『フリークスアウト(原題:Freaks Out)』の存在を知った。

一瞬アメコミのような“スーパーパワーのヒーローチームもの”かと思ったが、そこにいた主人公達の姿とプロフィールを見て驚く。
彼ら4人の“超人”ぶりというのはスーパーパワ・スーパーヒーロー的なものというより、
「びっくり人間」的
であったからだ。

『フリークス(怪物團)』という古い映画がある。
実際の奇形・障がい者の人々をキャスティングし、彼らが容姿や特技を披露する見世物小屋を舞台にしたヒューマンドラマだ。
閉鎖的な見世物小屋内での障がい者と健常者間のいざこざを描き、多少ブラックコメディの要素が強い。

『フリークスアウト』のフライヤーからは、『フリークス』のような閉鎖的な雰囲気だとか、奇形・障がいがあるが故に起こるドラマに重点を置いて見せようとする感じを受けなかった。
“人とは違う個性に生まれた者達の小規模アベンジャーズ”
的と言おうか、ヒロイックな見せ方をしていないものの、独特なパワフルさを放つバトル映画……そんな印象だ。

私は早速フライヤーを持ち帰り、この映画が公開されたら観に行くと決めていた。

※以下、内容に触れての感想となります。
ネタバレ注意!!


映画は、主人公達4人のパフォーマンスシーンから始まる。

時に妖艶に、時にグロテスクに虫を操るチェンチオ。
愉快な道化師として笑いをとりながら、体の磁力を披露するマリオ。
雄叫びを上げ獣然とした容姿を見せつけて人々を怯えさせ、しかし見事な怪力で拍手喝采を受けるフルヴィオ。
そして、静かに美しく、電球を灯すマティルデ。

彼らの能力と個性をサーカスの舞台で流れるように紹介していく導入に私は一気に引き込まれ、風変わりな主人公達にすぐに愛着を持った。

これはスクリーンを観る私だけではなく、サーカスの観客達も同じだ、というのがまた心地よかった。
ショーの最中は主人公達の技や見た目を恐がったり、異質なものを見る目で団員を見ていた観客らだったが、ショーが終わる頃、それらの偏見に近いマイナスな感情が彼らの中から消え、皆笑顔で歓声を上げていたのだ。
ここが(映画ならではの綺麗事だと言われてしまっても)私はとても好きだ。

そして、生まれながらに常人と違う、という主人公4人の「常人との違い」を、4人それぞれに
“超能力的個性(=戦闘能力)”

“視覚的個性(振る舞いや外見を見て分かる差異)”
二つを持たせているキャラクターづくり
も魅力的。

フルヴィオは
怪力+多毛症
マリオは
磁力+幼い振る舞い
チェンチオは
虫使い+色素欠乏(アルビノ)
といった具合に。
マティルデはまず超能力的個性として帯電のようなエネルギーを持つが、見た目はそのへんの少女と何も変わらない。それどころかとても可愛らしい美少女である。
しかし、彼女の“見て分かる人との差異”は行動上のもので、体に満ちるエネルギーゆえに「人と触れ合う事が出来ない」という、他の3人よりずっと悲しいものだ。
家族のように身を寄せ合う団員達の中にいても尚、マティルデは彼らと触れ合えない。
外見的ではないが視覚的に伝わるマティルデの
「人との違い」
これは、主人公達4人の中で最も孤独で悲劇的な特性として映る。

敵側の異能者・フランツもまた、
6本指+未来の幻視
と、外見的・内面的両方の個性を持っている。
物語後半、フランツが自ら6本指を捨てるシーンは、生まれ持った自分、つまり、なりたい自分になれなかったそれまでをかなぐり捨てるかのようでもあり、象徴的だった。

主人公らとフランツ以外にも、物語には障がいや先天的・後天的問わず人と違った部分を持つ人々が登場する。
(映画が描こうとしたこの点においては時代背景的に「ユダヤ人に生まれついた」だけで迫害されてしまうイスラエルもおそらく含まれていると言っていいと思う)

ナチスに迫害され殺されてしまう、ダウン症と思しき罪の無い市民に始まり、ベルリンサーカスでフルヴィオと愛を交わす“ひげ女”の女性。
ゲリラを率いるリーダーもいわゆる「せむし」であり、構成員にも義足の男性がいる。
ゲリラ達がナチス兵と衝突し殲滅していく終盤の交戦において、彼らが“片手を失ったナチス兵”の命を奪わなかったシーンにも含みがあると思えた。
同情にも見えるし、殺すより「障がいを持った身で苦労して生きさせる」事を強いたようにも見える。

しかし、これらの人々の持つ特性や障がいを、ストーリー上で不必要に誇張してこない(が、ふと考えさせられる)のも作品に一貫する感触として私は好きだ。

これ結構ギリギリなアレなんで書くか躊躇してフィルマークスには書かなかったんだけど、フルヴィオとひげ女の彼女の性描写のシーンに、二人が向き合う体勢の描写「も」入れられていなかったら、これかなり見せ方とか意味合いみたいなものが違ってたと思うんだよね。
これがあったことで、悪趣味さの込められたシーンでは無くなってたと私は思ったしほっとした。

ストーリー全体の構成も、
「生まれついた特性を活かして活躍し、受け入れようとするサーカス団の4人」

「生まれついた特性のせいで人生が上手くいかず、最後には自分の生まれついた容姿を捨て別の人間になりきるフランツ」

の対比がなされていてドラマチック。

映画としては、要所要所を「少し丁寧めに中程度の掘り下げをしていく」じっくり目の運びは、人によっては(もっと短くできただろ、的な)冗長さを感じてしまうかも知れないし、「精神的にほぼ子供のまま大人の肉体」であるがゆえのマリオの性描写が挟まれる事も見ていて受け付けない人もいそうな気はする。

しかし、この映画の存在感は唯一無二である。
アメコミヒーロー風のヒロイック能力バトルもの、や、多様性啓蒙要素でまとめ上げたもの、のどちらの要素も含みながらそのどちらでもない方向の存在感に素直に夢中になれる所はあると思うし、多様性ごり押しポリコレ映画からは摂取する事の出来ない美醜・清濁を痛快に見せてくれ、考えさせてもくれる気さくなテイストは、今だからこそ貴重とも思えるカラッとした爽やかさのようなものを感じさせてくれた。

エンディングのイラストは、フランツが幻視した未来の断片なんだろうか。
ベルリンの壁崩壊やベトナム戦争を視たと思われる歴史的なスケッチの中で、イタリアでスラングとして定着するくらい人気者になる日本のロボット『鋼鉄ジーグ』の走り書きが、日本人としては何とも粋で嬉しいワンカットだ(笑)。
(この映画の監督さんは『ジーグ』の映画も手がけられている)

多様性の清濁、障がいと個性……言葉にして語るには難しく、傷つき悲しむ人も多く、綺麗事だけでは済まされない、些か窮屈さのつきまといすらもする難しいものに関して、この映画は明るく前向きに、そしてきちんと考えさせてもくれる含みを持って、一つの表現として、そう、真正面からの変化球を投げてくれた。

『フリークスアウト』に喝采を。
そして、4人の団員と心優しき団長「メッツァ・ピオッタ」に、心からのカーテンコールを。

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