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映画『ゴジラ -1.0』ーーゴジラを掘り下げず国家を掘り下げない「ゴジラ」

公開から四日目、月曜日の平日の早朝。
混雑を避けて落ち着いた環境で観たいと思い観てきました『ゴジラ-1.0(マイナスワン)』。
事前情報では
・山崎貴監督作品
・戦後間もないゼロの日本をマイナスにするゴジラの襲来
との事と、筋肉モリモリマッチョマンのゴジラデザインくらいは押さえていた。

私は小学生~今までで一応全てのゴジラ作品を観てきている。
恐ろしい初代『ゴジラ』から、子供向けの怪獣対怪獣やおもしろ要素満載の昭和ゴジラ、キャラクター性とファンタジックな雰囲気に満ちた平成ゴジラ、マグロ食ってる奴、そして平成ガメラに近いリアリティを持ち込み喜怒哀楽恋愛の押しつけを廃しゴジラを災害として国家目線で対峙した異色の『シン・ゴジラ』、モンスターバース等も。
けれど“映画のシリーズとして”追いかけてきた止まりであり、マニアックな知識とか持論的な愛着みたいなものは無い。
何なら好きなゴジラシリーズ怪獣はゴジラよりもヘドラとキングシーサーとチタノザウルスとビオランテ。
なのでゴジラが『おそ松くん』のギャグを真似ようが、イグアナになろうが、メカゴジラが液晶でメッセージをくれようが観てきたし(『シン』の形態変化や第二形態ミーム化は受け入れるのに時間がかかったけど)、今回もどんな味つけのゴジラ作品が来ても美味しくいただけるはず。
「ゴジラとはこうでなきゃダメだ!」みたいな深いこだわりやNGもないので楽しめるだろうな、と思いつつ映画館へ。

シンプルに感想を言ってしまえば、5点満点で
好きなところ2.3
嫌いなところ2.7
といった感じでした。
残念ながら私には刺さらなかったし、刺さった!ここがいい!としている人の多いそのポイントこそが私の完全に受けつけない所だった。

以降、ネタバレありで「良かった!」と「ここは残念だった」を書いていきます。
ネタバレ見たくないよって方以外にも、前述のように私は「好きだったポイント」の方が少なかったので、
・「泣ける映画(特に邦画)」という基準に名作の価値を見出だしてる方
・今回のゴジラ大傑作!マイナスな意見言う奴は何も分かってないし認めたくない!って方
・『SBMドラえもん』「ドラクエユアストーリー」の内容に言及するのを読みたくない方
・個人の感想として読む、という理解が難しい方
は回れ右をオススメします。

※某SNSで
「ゴジラつまらないって言ってる奴等は論家気取りの逆張り」
「『シン・ゴジラ』が好きな方がおかしい。全てのゴジラ見てから批評しろ」
みたいな意見も散見したのだけど、
(的はずれな作り手への人格否定や名誉毀損はダメだが)自分の好きなジャンルへの
「残念だった・合わなかった」
って意見を“(そのジャンル及びそれが好きな自分が)攻撃された”と感じる感性は、芸術作品への愛着ではなく「盲目な信仰」だと私は思っています。
ゴジラファンだというなら分かってもらえるであろう台詞を引用してここぞとばかりに言いたい「まず君が落ち着け」。

ある特定の立場から映画を通してポジショントークする(ことで金銭を得たり支持者に伝える等需要に則している)プロの評論家の立ち位置に異を唱えるにとどまらず、全ての観客の「残念だった・合わなかった」を攻撃と捉えて許さないジャンルが今どうなっているか。
勿論、個人の狂信的な信仰は自由ですが、そういった一分の否定意見も受け入れられない人は自衛に徹し、人々の感想が飛び交う場に出てくるのは自身の為にも周りの為にも映画文化の為にもやめた方がいいです。
そもそも、他者の感性に対して“逆張り”という言葉を使ってまで冷笑認定する的外れさを認識して欲しい。
「関西育ちだから納豆に親しみがなく美味しく感じない、苦手」という味覚を持つ人に対して
「関東ではみんな食べてるのに、何その味覚。逆張りするなよ」
とは言わないでしょうよ。
批判的上から目線やファン見下しにならまだしも、面白くなかった・合わなかった、という感覚まで逆張り呼ばわりするっていうのは、そのくらい的外れなものに感じます。
最近の攻撃手札というか、この言葉さえ使えば相手の人間性から根本否定できると思ってる的はずれな決め打ちマウント暴言語「陰キャ」「逆張り」「こじらせてる」を芸術鑑賞の意見交換に持ち込むのは本当に良くない。
あと、個人の感想を言う場なのに
「それってあなたの感想ですよね?」
で意見交換から他者を排除して的外れ扱いしてる人も何故か多い。
何だろう、ひろゆきさんみたいに賢い人はその言葉をそんな的外れな使い方しないんでやめてもらっていいですか?
それなりの語彙もないのに意見交換に勝ち負けを定めて他人を否定してまわるのは幼児レベルに人として失礼だと思う。まあ私の感想ですけど。
あとは、直近の作品だからこそそれが初めて観るゴジラだったり、面白かったと感想を持った人も多い『シン・ゴジラ』ファンへの人格否定的な対立煽りの酷さもキツい。
折角新たなスタートを切った「ゴジラ」、良かったも残念だったも、このゴジラが初めてのゴジラの人の感想も全ゴジラ観てきた人の感想も『シン』と見比べた人の感想も、いろんな人の「こう思ったよ」が自由に発言できるジャンルであって欲しいです。

自分が面白いと思ったものをつまらないと思う人がいる“違い”の尊重や面白さ込みで芸術鑑賞だと思うので。



□これは「ゴジラの物語」でも「日本の物語」でもないーー一人の男に寄り添う、彼のトラウマと克服に重なる事件と解決の物語


今回の舞台は大戦末期から戦後。
町にも心にも刻まれた戦争の傷跡にもがく日本と、襲い来る巨獣ゴジラ……ではなく、
「そんなゴジラと向き合う事で己の戦争の傷跡に向き合う一人の青年」
の物語。

海からのスタートやマスコミの中継、「大戸島」等、初代『ゴジラ』からのカットや名詞引用などから感じられる目配せと、前述の通り“ゴジラ対個人”を強く描き、『シン・ゴジラ』と正反対の切り口を見せる。

そこに付随する人間ドラマが主体となり、ゴジラそのものはほぼ掘り下げられない。
vs怪獣に、その戦いを通して人々にパワーを誇示した「怪獣王」でもなければ、現実社会の災害と原発のメタファーと思しき「呉爾羅(シン・~)」とも異なり、ただただ圧倒的な未知の巨大生物として描ききられたゴジラは初代と同じく恐怖と絶望を撒き散らす。

ゴジラに関して描かれているのは、
・現地の人は認識している原生生物であり、放射能により異変をきたしたことで(?)大型に成長(変異)する
・海を移動する
くらいで、東京に来る理由も謎かつ作中で言及すらされていない。
個人的にそれは別にマイナスポイントではなく、荒々しくも人間に近い動き、深海魚が大量死する出現の予兆や、放射熱線の背鰭の予備動作、大戸島から戦後にかけての成長ぶりなどの見せ方は、新たなゴジラとして純粋にカッコいい。
生き物としての恐さ、不吉さ、生き物離れした機械的な常識外れさの全てを併せ持っていた。
今回のゴジラ、めちゃくちゃ物を飛び散らかすよな!
毎年毎年弱体化パッチが当てられていくかのように新学説になるほど腕が小さく使い物にならなくなっていくティラノサウルスとは違い、恐竜的リアリティではなく、腕の筋力や可動域を見せつけるような暴れぶりが本当に恐ろしい。

なので、ゴジラが腐ったスポンジみたいにボロボロ崩れる死に(?)様は物凄く嫌だったな。
ゴジラの散り際・負け際にカッコよさがないというか、生物の「死」を思わせない崩壊でしかなかった。敷島の戦争トラウマ投影→役を終えたら舞台装置的に淡々と崩壊、と。
とことん人間寄りの描き方なんだなと、クリーチャーとしてのゴジラに魅力を感じたからこそ思ってしまう。

□ゴジラは好きでした、君らは好きではない

反面、個人的にだが“ストーリーが=監督が 見せようとするもの”に全く没入できなかったのが残念。

・毛ほども感情の動かない朝ドラよりプラスティッキーなクリーンすぎる人間ドラマ
でかい独り言や「ここは…?」「やったか!?」などアニメみたいな台詞
・昭和を感じないヘアスタイルの人物の多さ(というか坊主刈りの異様なまでの少なさ)
・典子が本心をぶつける時の「敬語→タメ語→タメ語→敬語」という4段コンボの喋り方
・ご都合性善説な(なのを人情や感動として入り込める人には劇的な)人間関係と展開
・伊福部さんの曲と合わない他の劇伴(余談だが、人間側から仕掛ける作戦中にかかるのがゴジラテーマだったので、ああ反軍事的な色もあるし『怪獣大戦争』のマーチは使わないのなと確信)
・この世界の人間は五感が半分くらいなのか?と思わせる「なぜその距離までそうなの!?」なリアリティ犠牲演出

などが、感傷や感情的盛り上がり優先で細かい事を覆い隠す(事に観客も呑まれ浸りやすい)典型的邦画のヒューマンドラマの雰囲気や見せ方が苦手な私にはかなりノイズだし鼻について全く感情が動かなかった。
まず主人公の敷島と典子が夫婦でない・一年経っても夫婦にならない事の「わざわざ感」だが、これはまあ
“婚姻関係でもなく血の繋がりもない生き残り同士の集まりが、気づけば「家族」の絆を持っていて心の傷を乗り越え家族になる”
という『ALLWAYS三丁目の夕日』的な監督の「絆エモ」なんだろうな、で置いておける。引っかからずにスルーできる(し、戦争を過去のものにできていない敷島のPTSDのせいで距離を縮めあぐねている、簡単に典子に手を出さない清廉さを演出していると思える)設定。
子供も観るだろう映画でわざわざ昭和のダークサイドや汚さをリアルに寄せる必要もないのも、選択としては理解できる(けど一応出てくる「パンパン(売春婦の事)」の語はリアリティなのかな)。
“偽善者ぶる”という謎の言葉も咀嚼出来ないがこれは……勢い任せの言い間違いのリアリティなのか?

責任感からくる命の投げ出しや日本軍の特攻精神の否定→初代『ゴジラ』の芹沢博士のように一対一の決死の決着に持ち込みつつも敷島を死なせないという結末による差別化、とかも別に、監督の初代否定とまでは思わないし、監督のメッセージであり今作のキャッチコピー「生きて、抗え」なんだろうと飲み込める。

でもさ、手しか怪我してない奴が、しつこく懇願しようって時に足を止めるか?追いすがって頭下げるだろ。
あれだけの質量の生き物がおそらく築地あたりから銀座へ上陸したとして、電車から目視できるより先に足音なり地響きなり破壊音なりが聞こえてくるのでは?
農村でわざわざギリギリまでゴジラ見物して結局逃げる人々何なの?
あんな素人漁船の群れなんて呼びかけより先に探知機に出て大騒ぎだろ?
「一度放射熱線撃ったらしばらくなにもしてこない!チャンス!」映画的に今言う?それ先に言えばこそ観客は盛り上がるし、作戦の転機としてそこに一緒になって没入出来るんじゃないのか!?

これらは特撮がハッタリとしてリアリティを犠牲にする「ケレン味」とは全く違った。
この辺、他の怪獣ものやパニックもののようにモンスター主軸の見せ方であれば
「ま、映画だからな(芝居がかった立ち居振舞いも演出としてあるよな)」
と気にすらしないのだが、人間ドラマを“ここがこの映画のトロの部分ですよ!”と出してくるから、余計に
「ゴジラ深掘りせず敢えて人間感情とカタルシスに比重割いてるのに人間の描き方それなの?」
と気になってしまう。

「特攻から逃げる」のを「弱い人間」と描くのも現代人の感覚っぽく、あのご時世、日本国民として特攻隊として「特攻から逃げる」という非国民ムーブができるのは弱い人では絶対無理で、常識や自制心や世間体や責任感や(軍国主義当時の)倫理よりも我の強さと命惜しさが勝る、かなりのクソ強メンタルの持ち主であるはず。
(ここは台詞で語られそうと思ったけど無かったな)

いわゆる“泣ける映画”を娯楽として美しさを受け取り浸れる、リアリティよりカタルシスに惹かれ浸れる人であれば、主人公の物語として大いに感動できるんだろうな、といった印象。

最たるものが「敬礼」の意味の分からなさ。
敷島への敬礼なのか、ゴジラへの敬礼なのかでまず解釈が分かれそう。
勿論監督の中には明確な答えがあるだろうし、それと同じ解釈の人もいるだろう(それが何なのかは、明確な提示を作品がしなかった時点で明かす必要性もないだろうし、監督と同じ解釈だけが“正解”だと振りかざすのは、よほどの明確なヒントが劇中で示されていない作品において芸術鑑賞としてマイナスな姿勢だと思う)。
敬礼シーンに感動してる人には、あれ何で敬礼したと感じた?どう解釈してる?ってたずねて色んな意見を聞いてみたい(別に煽りとかじゃなく、未知の言語の単語を聞いたからその意味を知りたい的な感じ。単純に自分なりにも全く分からないので)。
好敵手への敬意とか戦争の価値観の名残とか推測してはみるけど何もしっくりこないし、
「この作戦参加者の中には、銀座のゴジラのせいで身内失った人は一人もいないのかな(ゴジラが身内の仇の人間がいないから理性的な態度なんだな)」
くらいの印象しか汲み取れなかった。
“みんながワイワイ騒いでガッツポーズ的な歓喜の中で、敷島だけが、大戸島で見殺しにしてしまった人々や、あの時撃たなかったせいで生き延びたゴジラによって死んだ銀座の人々を思い、それでも自分の戦争を一区切りつけさせてください……と大戸島か銀座の方角に敬礼をしていた”
とかだったら
、シーンとしても理解できてたんだけどな。

『千と千尋の神隠し』の、両親が何故ブタの大群の中にいないと分かったのか?と同じに(未だに誰も、正解じゃなく自己解釈すらもはっきり答えてくれない。あれはどうしてだかは千尋にしか分からないんだろうそこがいいんだよ、冒険の成果なんだよ~的な答えしか聞いたことがない)、明確な解釈も無いまま「意味は分からないけど感極まるな~意味あるんだろうな~いいシーンだな~」みたいに呑まれるスキルが私には無いのを痛感する。
大衆への意図的反発でこう言ってカッコつけたがる人にならまだしも、ただの好き嫌いが多数派と合わないのを「逆張り」とか間違った言葉で“全員が自分の好きなこのゴジラを絶賛してないと気が済まない”みたいな盲目な価値観の自称ゴジラファンからイキり呼ばわりされる筋合いはないし、この作品が好きとか、素直に心動かされたという人を理解できないわけではないので、これは偉そうに言うべき映画の良い悪いではなく、単に個人的好き嫌いの問題。
泣いている人がちらほらいた気配があったので、素直な心や思想の一致で没入できれば感動作なのは確信した。

□あの結末を“ご都合主義”と見るか!?新しい令和の「ゴジラ」シリーズの始まりを予感させる不穏さ

ご都合主義と少ない説明の中で、ちらりと見せられた“典子のあの首”そして海の中のゴジラの肉片のラストカット。
劇中のゴジラを見るに、彼女は運よく軽傷で無事だったのではなく、銀座に多数あったというゴジラの残留物質により肉体の損傷を「再生」している可能性が高い。

これは……隣のオバチャンも整備士も、結局悪態ついても結局みんないい人です、はいハッピーエンドです、なハートフル朝ドラを見せられてんのかよ、となっていた中で一瞬にして肝が冷えた。
「典子が生きてたのはご都合主義すぎる(ハッピーエンド)」
「典子は生きてたけど、あれはゴジラの放射能による病変で、ゴジラも(広島長崎の原爆同様)人々にとってまだ終わらない」
等解釈は様々あるだろうし、それでいいと思うし、今作の最大の面白さはここだと思っている。

現実では日の目を見ず葬られた、戦争の忘れ形見的な兵器(震電)を夢の対決させるあたりで「ゴジラなんて虚構なんだ大人になれよ!」が来るのかとか、生存再会シーンで「命の大切さを知ったね、よくできました」的な方に持っていかれる心配をしていたので、令和にもまた“G細胞”の物語が作られていくのかという予感を抱かせる期待と恐怖には、シンプルに拍手。

おまけ。山崎監督作品が嫌いというわけではなく、これは子供の頃から大事にしてる宝物です。

□20240115追記:海外での大ヒット&-カラー版上映おめでとうございます

アメリカでは“費用対効果”みたいに、
「この出来で制作費がたった◯◯ドル!」
というのが映画の箔づけの一つとしてある価値観のようだが、制作費の面を抜きにしても本作はじゅうぶん海外の人々を夢中にさせる映画だと思う。
記事を読んで下さった方からは、お前この作品の半分が好きじゃないじゃん、と言われると思うがまず、私が好きになれなかった「演技・台詞回し面への違和感」が、第一言語が日本語でない人々にはほとんど問題にならない(気づかない・分からない)という箇所が最も大きいからだ。
我々日本人が海外の俳優の喋り方や台詞回しに「名演技かいわゆる大根か」「言い回しが鼻につく」等を感じにくいのと同じ。
あとは、海外の人がサブカルチャーや雑学レベルの知識(怪獣や、バンザイアタック)として知っている日本要素が出てくるのも、観ていて分かりやすいというか、
「おっ、これ知ってるぞ!日本は戦争の時に命を捨てる攻撃をしてたんだよな!」
みたいに、日本の作品を観た手応えとか、日本の映画ならでは感として印象的だろう。
そして、『アルマゲドン』等にあるような自己犠牲と責任感に彩られる愛国心と人間愛、各種大規模ディザスタームービーに通ずる国を揺るがす災難のデカさ、恐ろしさ
海外の人々にとって、観やすく分かりやすく、日本らしくもあり、海外での普遍的な要素を全てバッチリ押さえている。
怪獣×ハートフルヒューマン、といった邦画が海外で知られ、受け入れられていくのは、私個人としては楽しいし嬉しいし、心から応援している。
応援の一環として、近々マイナスカラーも観に行く予定。

※本作の熱狂的ファンの中でも幼稚な語彙の一部の人々が、批判意見に対して向けがちな常套句に
「(お前はこの映画を好きじゃなくても)海外では大ウケしてるぞ、くやしいのうw(だからおかしいのはお前。お前は少数派。シン・ゴジラは海外ではウケなかったからやはり俺の好きなマイナスワンの方が上)」
といった低レベルな揶揄がかなりあるが、別に自分の好きじゃなかった映画が海外で評価されたからといって、映画鑑賞を愛する人間はほとんどが何も思っていないか
「この映画はこっちでは絶賛でもあっちでは酷評なのか、映画って面白いな」
くらいのものだと思うので、マイナスワンファン全体の品位を下げる何様マウントの勝ち誇りはやめた方がいいと本当に思う。
世界に羽ばたく素晴らしい映画のファンとして、ゴジラの顔に泥を塗らない言動行動のファンでいてくれよな。


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