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映画『陰陽師0』ーー“呪術ブーム”の中、敢えてこう描いた意図は?(ネタバレ有感想そのほか独り言)

※はじめに
私は民俗学・文化人類学をややかじっており、原作小説を途中までと、野村萬斎氏主演の映画、稲垣吾郎氏主演のNHK版を鑑賞済です。
そのため、呪術ありきの感想や原作との比較を含めての感想が含まれますのでご了承下さい。
フィルマークス投稿に加筆修正。

※映画の全体的な見せ方や雰囲気、描き方に触れていますので、まだ観てない・前情報無しで観たいという方は閲覧をお控え下さい。
更に警告文を挟み、より映画の内容・描写に細かく言及するネタバレ有感想となります


■『陰陽師0』あらすじ

平安京。
陰陽師を目指す候補生らの中に“狐の子”と噂される若者がいた。
人付き合いにも出世にも興味のない彼は、音楽を愛する貴族・源博雅と出会いその真っ直ぐさに刺激を受けながら、やがてある事件に巻き込まれていく。

□世間の“呪術ブーム”の中、敢えてされた「改変」

実在したとされる安倍晴明の伝説をモチーフにした夢枕獏氏のファンタジーホラー小説を改変。
舞台となるのは小説よりも過去、陰陽師候補生時代の人嫌いな晴明と、正反対に純朴で人のいい源博雅を出会わせる青春的バディアクションしてのアレンジが色濃い。

予告編の
日本の呪術はここから始まった
からはっきり感じられたが、多分に呪術をモチーフとした少年漫画人気に乗っかる形の宣伝や、
呪術、激突。
という、呪術バトルを思わせるキャッチコピー。
だが反して、映画は意図的に「呪術を見せようとしていない」作りである。
呪術を“呪術として”見せようとしていない」と言えば伝わりやすいか。
物語は前提として、呪いや怪異現象、葛葉姫や蛙の伝承等、有名な怪異や晴明伝説の否定から入る。
時代背景解説チュートリアルとともに「呪術や妖怪なんて本当はさぁ」ががっつりな見せ方は現代的でありつつ、従来の陰陽師モノを期待して観ると拍子抜けするのは否めない。
更にユングみたいな理屈をやりたいのなら、正直、もうこれ安倍晴明のアレンジじゃなく一から井上円了で作品作れよ(まあ今の邦画にそんな数字狙えない冒険は無理だろうけど)、とは思ってしまう。

注: 井上 円了(いのうえ えんりょう)は哲学堂で有名な哲学者。
熱心な信仰を持ち仏教を重んじつつ、妖怪や怪奇現象に対して迷信の否定を行った。
“アンチ妖怪学者”として妖怪ファンからは良いイメージを持たれていないことが多いが、円了は怪奇を全否定してはおらず“仮怪(錯覚や迷信にすぎない、科学的に説明のつく不思議)”と“真怪(説明のつかない、本当に不思議なもの)”をも区分する余地を残している。

原作にも「名前をつける、という行為は概念で縛る事であり呪のシステムと同じ」みたいな、オカルトより科学に寄った精神的な理論はあるが、ハリー・ポッター的なファンタジーを一筋縄ではやりたくなさすぎてひねくれ、原作の幻想怪奇を「子供っぽいもの」のように扱い捨てて
「大人っぽくしよう」
としてる感が個人的にノイズ。

事あるごとに書いているので既視感のある方々には繰り返しになってしまって申し訳ないのだが、
オバケや呪いを真剣に作って大人をしっかり怖がらせられるアジアのホラー映画や、大真面目に『コンスタンティン』を作れる海外に対し、邦画は何故こんなにひねくれているのかと、常日頃邦画のファンタジー忌避に対して思っている。
(日本は宗教的な恐怖を大人が持っていないとか、予算がとか、ファンタジーはアニメが担ってるから住み分け、という風潮がある、というのが言われそうな意見だなと思う。その上で、それは実写が大真面目にファンタジーを作らない事とイコールとはどうしてもならない気がしてやまない。ホラーやファンタジーを“中二病のもの(笑)”と捉えるような風潮の方に原因があると感じる)
じゃあ、呪術ブーム乗っかりで出してくる意味なくない?
呪術ブームに乗っかります、だけど正統派な呪術・オカルトファンタジーはしません「そんなのは所詮心理的な迷信」なので、はっきりそう言って大人っぽくしますというスタンスが、呪術ブームや原作のホラーファンタジー小説に乗っかって現れたのが、私は結構好きになれない。
勿論個人的な捉え方に過ぎないので、たくさんの人が楽しめたなら映画としての素晴らしさは否定しない。

白組の高水準なVFXもやたらと少女漫画のスクリーントーンみたいな耽美演出に使われ、原作の博雅のキャラクター性である
「人外のもの、人外に堕ちたものの心さえ震わせる笛」
という要素も(ストーリーを「大人っぽく」したいのだろう)なく、彼の音楽は単なる恋愛要素・バディ的なカタルシス・ジャガーみたいに事あるごとに笛を吹きたい性格、として描かれるだけ
で残念。

ネガティブな感想ばかり書いてしまったが、小道具や建築、そして何より俳優陣の演技は圧倒的。空間や人物に完璧に血が通い、多くのアイコニックな漫画キャラクターを演じてきた山﨑賢人氏のまた違う表情・佇まいの役づくりと、新しい安倍晴明像は魅力的。

予告編を観たときからやや違和感だったのだが、
「安倍晴明が“命ずる”」
の詠唱の最後が
「“~たまえ”」
なのがしっくり来なくて……これ正しいのかな。
(前者なら自分より下位の鬼神等を動かすため「急急如律令(すぐやれ)」等で結ぶ。後者は祝詞のように上位の神等に「~して下さい」のお願いのニュアンスを感じる)
いざなぎ流祭文にも「給へ」で結ぶものがあるが、「命ずる」という上からのニュアンスではないように聞こえる。

いわゆる着物警察や拳銃警察のようにゆるいフィクションの粗を正論でけなすような気はないので、これで評価を下げてはいないが、
「命令する!◯◯してくださいお願いします!!」
って変じゃない?
とは思ってしまっている。

※以下、更に本編の描写に直接触れる完全なネタバレ感想となります!!たいした考察や感想ではありませんが、ネタバレ注意!


□エンタメにしたいのかそうでないのか分からない、呪術描写のルック、反してガチな作り込み

雑面(『千と千尋の神隠し』でもモチーフになっていた、紙に図形状に描かれた意匠の面)と龍を邪法に用いるのは完全にヴィジュアル重視すぎて違和感。
雑面は別に人を呪う道具ではなく一般的に踊りのアイテムだし、呪いが蛇ならまだしも聖獣である龍の形状なのは本当にキツイ。少年漫画とかが「悪の龍神」や「聖なる堕天使」を創作するようなもの。
すかして正統派ファンタジーにせず、呪いは心理的なもの!ってリアリティにはこだわるのに、ルックは“それっぽさ”止まりなのが残念。

水で火を止めるシーンを後から出すなら、チュートリアルで相生(木から火が生まれ~という、エネルギー生成の理論)より相剋(水は火を弱め~という、エネルギー強弱の理論)を見せたほうがクライマックスシーンがより劇的だったのでは、というのも残る。

驚くほど良かったところもあり、五龍・八大竜王の呪文から水龍につなぐとか、菅原道真公の呪文におそらく“ノミノスクネ(野見宿禰。相撲の神として祀られているかつての豪族であり、菅原氏の先祖とされる)”って言ってたあたりは凄く良かった。
呪術監修に加門七海氏(伝奇作家・民俗学研究家)が携わっていらっしゃるからか、このへんは本当に作り込みが細かくて、映画の内容に直に関係はないが思わずドキッとした。
また、ある学生が「十二天将が玄武」と言っているシーンは六壬(という占い)を使ってたっぽいが、あの占いだと
“物盗りの犯行”
という結果になるので、彼の占いは残念ながら外れてましたね(笑)

最後に……権力や身分、そして、見えないものへの畏れ(を利用した支配)といった、日本の呪術絡みの負の歴史を描いていく悲しく切ない物語の中で、
人々の信仰のため、犠牲になる者の人生があった
という事をしっかり描いたのは、美麗なルックと現代人ウケの良さそうな本作の中では、最も残酷な「呪術の負の側面」であったと私は感じている。
この要素が無かったら、単なる呪術逆張りからの主人公無双なポップコーンムービーとして観終えてしまっていた。
逆に、この要素を見せてくれたからこそ、リアリズムや、ブラザーフッドの爽やかさや、美麗なルックへのこだわりだけではない女性監督による繊細な筆致を含む“陰陽師”の続きを観てみたいな、とも思えた。

※※本作がこだわった
「呪術は実際には心理を利用した云々~」
みたいなあたりに面白みを感じた人は、そこらへんに振り切った上で「つまりこうなんだよ!」が雄弁な北欧のオカルトホラー『NOCEBO(ノセボ)』をぜひ。
このタイトルは有名な“プラセボ(プラシーボ)効果”の逆の心の動きを意味する。
実在の呪術像を“心理現象です”で否定するのではなく、心理現象たる呪術として呪術を描いた上でのヤバさや実態を巧みに扱った、“呪術もの映画”としては個人的に最愛の作品です。


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