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観音菩薩に手を合わす老婦

それは木枯らし吹きすさぶ寒い夜のこと。
寺の本堂の並びにある庫裏で寝ていた住職が、ふと深夜に目を覚ました。
何やら気になり見回りをしていると、玄関の格子戸が風でガタガタと揺れ曇りガラスの向こうに人影が横切った。
しかし、格子戸を開けて外を確かめるも誰もいなかった。
冷たい風に身を震わせながら中に入ると、今度は本堂の方から物音が聞こえた。
寺の門は閉まり、他の僧侶は各々の家に帰った。
家族もすでに部屋で寝ている。

本堂に人などいるはずがなかった。
けれど、念のため住職は本堂に立ち寄ることにした。

薄暗い廊下を渡って本堂への扉の前に立つと、中から微かに人の声と気配を感じた。

 

住職は扉をそっと開けた。
すると、薄暗い本堂の中で消えているはずのロウソクの火が揺らめき、蹲っている人影が見えた。
近づくと、それは観音菩薩に向かって正座している小柄な老婦だった。
 

こんな夜更けに何をしているのか。

そう思いながら住職は老婦に近づいた。
一方、老婦は住職に気づくことなくただただ観音菩薩に手を合していた。

「どちら様かな」

住職はそう声をかけた。
すると、声に気づいた老婦はゆっくりと住職の方に顔を向けた。

「どうされました?」

そう尋ねると、老婦はとても悲しげな表情を浮かべたまま煙のように消えた。

「ああ、やはり仏さんだったか」

住職に驚きはなかったが、その顔にどこか見覚えがあり思い出してみるも、その時はまるで思い出すことが出来なかった。

その後、住職はその老婦のために朝までお経を唱えた。

だが、それから老婦は毎晩本堂に現れるようになった。
夜な夜な本堂に現れ、観音菩薩の前で背中を丸めながら正座し、手を合わせて何か呟いていた。
住職が話しかけても、老婦は何も答えずに悲しげな顔をして消えていくだけだった。

それが二週間ほど続いた。

午前中の法要が終わった住職が自室に戻ろうとした時、寺に一本の電話が掛かってきた。
それは檀家であったNさんの七回忌法要の相談だった。
Nさんには息子が二人おり、電話を掛けてきたのは次男の方だった。
話を進めていくうち、住職ははっきりと思い出した。
夜中に本堂に現れる老婦が、六年前に亡くなったNさんだということに。
 

生前、Nさんは寺に墓参りに来ては祭儀に無関心な息子たちに対し、”自分が死んだら葬式すらもあげてくれないのでは”と危惧していた。
何より、そんな息子たちの将来を気にしていた。

七回忌の日程が決まった後、住職は何気なく電話の向こうの次男に尋ねてみた。

「みなさんお変わりはないですか」

すると、次男は軽やかな声で”三回忌が終わった後に結婚し、今は三歳になる娘と幸せに暮らしている”と言った。

「それは何よりです。お兄様はお元気ですか」

Nさんの長男のことを尋ねた途端、次男の声の調子が明らかに変わった。

次男の話では、長男はNさんの三回忌が終わると勤めていた会社を辞め、どこかへ引越したという。
連絡先は知っていたが、それほど仲のいい兄弟ではなかったため、引っ越したことでより疎遠になったという。
お互い、”用があれば向こうから連絡してくるだろう”と、そう考えていたそうだ。

それを聞いた住職は、夜な夜な本堂にNさんが何か言いたげに現れることを伝え、長男への心配を口にした。

とても信じがたい出来事なのだが、

「わかりました。兄貴に連絡を取ってみます」

次男はそう言って電話を切った。
住職は要らぬ心配であることを願った。

 

それから一週間ほどが経ち、寺に一本の電話が掛かってきた。

掛けて来たのはNさんの次男。
その声は憔悴していた。
長男が引っ越した部屋に初めて訪れた次男。
そこは実家近くの古いアパートだった。
その部屋で長男は一人亡くなっていた。
死後三週間ほどが経っていたそうだ。

それはNさんが本堂に現れた時期と重なっていた。

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