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誰かと共に生きていくということ【映画『ドライブ・マイ・カー』を観て】

映画館で1度観た後、アマプラでインターナショナル版が配信された後に、加えて3回ほど鑑賞した。

公開されて1年ほどしか経っていないことを考えると、かなりのスパンで見ている気がするが、私にとってはそれだけ繰り返し観るほど、好きであると同時に自分自身の生き方について考えさせられる、そんな作品である。

以下、映画の内容について踏み込んでの考察・感想になるため、ネタバレ注意でお願いします。

1.ドライブが表現するものについて

映画内で明確に語られているわけではないが、西島秀俊さん演じる主人公、家福悠介(以下、家福と記す。)はドライブが好きだ。

しかも、「他人に運転してもらうドライブ」や「他人の車に乗ってのドライブ」ではなく、「自分自身の車で自分が運転するドライブ」が。
好きというよりも、もはや自分の人生になくてはならないものとして扱っていると思う。

それは、なぜか。

生きている限り、人生において、他人からの干渉を免れることはできないし、どれだけ自分が思案しようとも自分自身の思い通りにならないことは多いにある。

しかし、ドライブをしている間は違う。
交通ルールさえ守っていれば、他人に干渉されることはないし、車は「他人から自分を守ってくれる存在」として機能し、アクセルやブレーキをマニュアル通りに踏めば、自分の思い通りに動き、自分が目指す目的地に運んでくれるのだ。

だからこそ、家福は真っ赤なサーブだなんてこだわりの車を使い、自分の思い通りに車を動かすために、他人にハンドルを委ねることを許さない。カセットテープを流し、外界の音もシャットアウトし、自分の話したい部分だけをカセットテープに合わせて話して聞く。
他人が自分の車に乗ってくることも、妻の音以外許していなかったのではないかと思う。

それはやはり、他人と関わることを求められ、他人からの干渉により思い通りにいかない現代社会において、車という場所が家福とって「逃げ場所」であり「唯一自分の思い通りにできる世界」であったからであり、そこに踏み込まれることに対して、とてつもない拒否感を持っていたからだと思う。

しかし、空港からの帰りに事故に遭ったことで、その「世界」は崩壊する。

妻の音は夫の安全を思い自分が運転すると申し出るが、家福は唯一自分の思い通りにできた、他人から干渉されない「世界」が崩壊したことに対し、苛立ちを募らせ、「世界」を守るために自分自身で運転することに拘り出かける。

そして、皮肉にもその日に音は急死してしまう。

音が急死したことにより、家福はよりドライブ、「世界」を守ることに拘るようになる。

広島という家福の自宅のある東京から、遠距離の移動が伴うような仕事先であっても、新幹線や飛行機を使用しての移動は行わず、車で向かう。
滞在先についての指定も、仕事のため…という言い方をしていたが、おそらく1日のうち幾らかの時間は「世界」に自分を置いておきたいという思いがあったのではないかと思う。


2.家福という主人公について

本作の中で家福はチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』のワーニャの台詞を繰り返し口にする。

それは、家福が実際に仕事でワーニャ役を演じていたからというのもあるだろうが、本作の演出上確実にワーニャと家福を重ねている。

『ワーニャ伯父さん』を読んだ上で、私自身の家福への印象としては「自分の思い通りに物事を進めるたがる人物」であり、加えて言えば、自分の思い通りに進めたいと願うがゆえに「自分の見たいものだけを見て」「他人からの干渉をなるべく避け」「自分自身の弱さや相手の思いと向き合おうとしない人物である」と感じた。

上述の言い方だけでは、自己中心的で、プライドが高く、人嫌いで、自分勝手で…とても嫌な人物であるように思える。

が、本作をおそらくパッと見ただけでは「嫌な奴」だと見えにくいのは、西島秀俊さんが演じているからというのが非常に大きい。
見た目が良くて、さらに声もいいので不快感をそれほど感じずに映画を見ていられる。
西島秀俊だから許されている、という言い方が一番良いかもしれない。

また、家福が舞台演出家という、自分の思い通りに舞台を作り上げることが仕事、という役柄にあることもキャラクター性を示す上で重要な役割を果たしていると思う。加えて、舞台役者含め周囲の人物も、演出家の言うことであれば従わざるを得ないだろう。「いい舞台を作るためなら」と納得もしてくれる。

しかし、妻である音は、どうだろう。
夫の「唯一自分の思い通りにできる世界」を保つために、こだわりの車に乗り、運転はさせてもらえず、カセットテープを録音する…。
もしかしたら、映画の中では出てこない(私が気づいていない可能性もある)が、他にも支配を感じさせる行動をとっていたのかもしれない。
そんな夫の支配から脱却するために、行動(浮気)していたのではないか。


3.妻の音について

妻の音の言動については、謎が多い。
なぜ、夫を愛していると言いながら別の男と寝ていたのか。
なぜ、セックスをしながら物語を語るのか。
なぜ、翌朝にはそれを忘れており、あえて家福に語らせるのか。

まず、別の男と寝ていた理由については、家福からの支配から逃れたいと願うためだったのではないかと思う。

これは冒頭シーンで音が語る「好きな男子生徒の家に空き巣に入る少女の物語」でも、少女が男子生徒を母親からの支配から逃れさせたいゆえに行動するという動機につながっているのではないか、と思っている。
少女は男子生徒を支配から逃れさせたいと同時に、「周囲からの評価も高く優等生」な自分という「周りからの支配(イメージ)」から逃れたいと願っていたのではないか。その物語を通して、音は自分の行動の意図を家福に伝えようとしていたのではないか。

では、なぜ、セックスなのか。
これは邪推でしかないが、セックスという自分を曝け出す行為を通してでしか、自分の内面を写した物語を音は語れなかったのではないかと解釈している。

物語というのは、大なり小なり筆者の人間性が反映されたものだ。
普段から自分が他者に示している人間性を元に書けている場合もあるだろう。

しかし、自分の深い部分、他者に示したこともない内面を写した物語であれば。
それが如何に傑作だろうと、あるいは駄作だろうと、誰にも見せたことのない傷、苦しみ、痛み、慟哭…そういったものを反映させた物語を他者に共有するというのは、評価が伴うものであるがゆえに、とてつもなく勇気が必要なことだ。
それは、おそらく今作の音も同じだった。
だからこそ、音はセックスを通してしか語れなかったのではないかと解釈する。

では、なぜ「翌朝には自らが語った物語を忘れており」「あえて家福に語らせる」としていたのか。

これも邪推でしかないが、おそらく音は「忘れたという演技」をしていたのではないかと思う。
正直、セックスをしている際の音の表情は、決して恍惚とした表情をしていたというものではなく、何か「覚悟」をしているかのような険しい表情だと感じたからだ。
セックスを通してでしか物語は語れなかったのかもしれないが、無意識に、気が狂って喋りだしているようにはどうしても見えなかった。

前述したように、物語というのは筆者の人間性が反映されたものだ。
それを他者に共有するということに、音自身もやはり恐怖を感じていた。
だからこそ、夫である家福に物語を語りながらも、「忘れたという演技」をし、「語らせる」ことで、初めての「他者との共有」を実感していたのではないか。
「語らせる」ことで、自分の人間性を「受け入れてもらえた」として、安堵していたのではないか。

しかし、亡くなった娘の法要から帰宅後のセックスの際に音が語った物語について、家福は「覚えていない」と嘘をつく。(これは明確に嘘である。なぜなら今作の後半、車の中で高槻と再度ヤツメウナギの話をする際、家福は覚えていたからだ。)
また、セックス中の家福の表情はおそらく「拒絶」を示している。

そして、音はおそらく家福が自分の行動(浮気)を知りながら、気づいていない演技をしていることに、しっかりと気づいていたはずだ。だからわざわざ、娘の法要からの帰り道、「本当にあなたのことを愛している」だなんてことを言ったのだ。

だからこそ、音の「今日、帰ったら少し話せる?」という言葉が重たい意味を持つ。

音はもう自分たちの「演技をし合う関係」は終わりにしようと家福に伝えたかったのではないかと思う。
その上で、今までのようにはいられないかもしれない、お互いに傷つくことになるだろうが、それでも演技をし合わなくてもこれから共に生きていく関係を作りたい、そう伝えたかったのではないか。

なかなか帰ってこない家福の帰りを待ちながら、音は何を思っていたのだろう。
倒れていた音の様子は、出かけようとしているようだった。
目の病気のせいで、家福が事故に遭っているのではないかと心配して、迎えに行こうとしていたのではないか。
それを思うと胸が痛い。


4.家福と音の関係について

3で述べた通り、家福と音はお互いに「演技をし合う関係」をしていた。
音は夫に内緒で他の男と寝ていたし、家福はそれに気づかない演技をしていた。

では、彼らは互いに愛しあっていなかったから、そのような行動をとっていたのか?

否、それは明確に否だと思う。

彼らは互いに愛し合っていたからこそ、一緒にいるため、お互いが傷つかないで済むようにするために、演技をし合う関係を築いていたのだと思う。
家福の「僕は君のことを深く愛しているけど」という言葉も、音の「あなたのことが本当に大好きなの」という言葉も心からの言葉だったのだ。

それでも、どれだけお互いに深く愛し合っていたとしても。

家福は、己の弱さから、他者からの干渉を疎み、自分の思い通りに世界を作ろうとした。

音も、その支配から逃れられない、それに答えきれない弱さから他の男を求めた。(支配と私は書いたが、音自身はそれを支配とは思っておらず、ただ愛するがゆえに、相手の望むようにしてあげたいと思っていたののではないかと思う。しかし、どこかでそれに対し痛みを感じていた、その献身に無理が来ていたのではないか…そんな気がする)

家福と音はどちらも物語に関わる職についていたからこそ、他の夫婦に比べ、相手の人間性を物語を通してより知ることができたかもしれない。
それゆえに、お互い惹かれあうことができたのかもしれない。

それでも、やはり伝え合えたのは、言葉だけなのだと思う。

どれだけ言葉を尽くして自分の人間性を示そうと、それを読んだ人間が自分と全く同じ気持ちを感じるかと言えば、そうではないように。

隣で同じ景色を見て、同じ経験をしたとしても、同じ気持ちを感じるかと言えば、そうでないように。

相手のことをそっくりそのまま知るなんてことは、やはり無理なのだ。

5.誰かと共に生きる、ということ。

でも、それでも、生きている限り、私達は「誰か」を求めざるを得ない。

物理的に一緒に過ごすことはないとしても、生涯を孤独で終えようとも。

「誰か」に自分のことを知ってもらい、理解してもらい、共感してもらいたいと願う。そんな瞬間が一時だってないという人は、おそらくいないだろう。


本作に登場するユンスとユナの夫婦は、口での会話を通して相手に思いを伝えることができない。それでも、彼らは相手のことを理解し合おうとしているからこそ、共に生きることができている。
加えて、ユナは流産を経験しており、子供を亡くしたという点では音と境遇は一緒である。

ユンスは言う。
「100人分彼女のことを聞こうと思った」と。

ユナは言う。
「自分の言葉が伝わらないことは私にとって普通のことだ。」
「でも見ることも聞くこともできる。時には言葉よりずっとたくさんのことを理解できる。」と。

家福は思ったであろう。
自分は音の話を聞こうとしていたか、と。
言葉で伝わらない部分にまで、目を向けようとしていたか。
自分のことを理解してもらうために、相手のことを理解しようとする。
共に生きるための努力をしていたか、と。

それができていれば、自分たち夫婦はもっと別の結末を迎えることができていたのではないか、と。


6.他者という存在(みさき)

広島に来た当初、家福はみさきというドライバーが充てがわれたことに対し、強い拒否反応を示す。1で記述した通り、家福にとって、他者の存在は「世界」を壊す存在だからだ。

しかし、みさきは家福に全く干渉をしない。
加えて、家福が指示した通りに動き、家福がみさき自身が乗っていることを忘れるほど心地の良い運転をこなす。

家福は段々とみさきという他者の存在を「世界」の一部として、受け入れるようになる。

それが決定的になるのが、ユンスとユナと夕食を終えた後の帰り道である。

そこで家福は初めてテープの音の声を遮ってまで、みさきに会話を投げかけ、「世界」の一部として受け入れるために、みさきのことを理解しようと質問を試みる。

対してみさきも、家福に自分のことを理解してもらうために、自分のことを語り、家福が自分を褒めたことに対し感謝の意を述べる。
(ここの一連の流れはユンスとユナの関係性を目の当たりにしたから、というのが大きいと思う)

そして、家福は目的地までみさきに任せるようになる。

みさきを「世界」の一部として受け入れたからこそ、信頼したからこそ、共に過ごす場所までも選ばせるようになり、カセットテープを流さず、みさきと会話を行うまでになる。

他者という存在を家福が受け入れ始めていることを象徴する場面だと感じる。


7.他者という存在(高槻)

しかし、そんな中で高槻という、もう1人の他者が家福の車の中、「世界」に踏み込んでくる。

家福が自分のことを語る。相手を理解するために。
高槻も自分のことを語る。自分を理解してもらうために。
自分にとっての真実を家福に伝えるために。

高槻という他者の心をのぞき、真実を知らされ、家福は大いに傷つく。
他者という存在を「世界」の中に受け入れたがために、だ。

高槻はさらに言葉を重ねる。家福を傷つけることを知りながら、
「結局のところ自分たちがやらなきゃならないことは、自分の心と上手に、正直に折り合いをつけていくことだ」と、そう告げる。

「本当に他人を見たいと思うなら、自分自身を深く真っ直ぐ見つめるしかない」、と。


高槻という人物は彼自身が言った通り、やはり空っぽな人間なのだと思う。

空っぽだからこそ、結局誰のことも本気で愛することができず、フィーリングで人付き合いをしてしまう。

空っぽだからこそ、その場の感情で動いてしまう。

空っぽだからこそ、自らの内面を写し出した物語を書く音に惹かれる。

けど、きっと高槻は音に憧れ、焦がれながらも、自分自身が空っぽな存在であることにどうしようもなく、向き合うことができなかったのだと思う。
音が家福を心から愛したように、自分自身も誰かを愛することができるのではないか、そう願いながら、やはり自分が空っぽであることを受け入れうことができず、苦悩していたのではないかと思う。

それでも、高槻は最後にやっと自分自身の弱さを吐露し、自分自身の空虚さ、自分自身が犯した罪を見つめ、受けいれる。

そうしなければ、他人を見つめることができないと気付いたから。

そうしなければ、他人を愛することができないと気付いたから。


8.それでも、生きていくということ。

生まれた瞬間から、運命に私達は向き合わされる。

家族、親、兄弟、子供、妻、友人、故郷、誕生、死、他人…。

自分自身ではどうしようもない運命に、生まれてきてしまった自分自身に向き合わされる。
その過程で、気が狂いそうなくらいに、傷つくこともある。
傷つくことを恐れて、気が狂った演技をすることも。

それでも、生きていかなければいけない。

遺された者たちは、遺していった者のことを考える。
もはや語ることのない死者の音に耳を澄まし続ける。

それでも、生きていかなければいけないのか。


「本当に他人を見たいと思うなら、自分自身を深く真っ直ぐ見つめるしかない」

高槻の言葉の意味を、私自身まだ、上手く受け入れられていない。

自分自身を見つめる、そのままの自分を受け入れる。
よく言われる言葉だが、どうしたらいいのか、いつもわからない。

だけど、この映画を見て、何かを受け取った気がした。

自分の弱さを吐露する家福の姿を見て、私は、他人に自分自身が感じたことを、何かを伝えようとしたことがあっただろうかと思った。

他人に理解されない自分を疎んでいたが、私自身が相手に伝えようとしなければわかってもらえるはずもないこと。

誰かに受け入れてもらえなければ、自分自身を受け入れることも、きっとできないこと。

最後に自分を救えるのは、自分自身しかいないこと。

エンドロールでは、そんなことをただ、考えていた。


9.ラストシーンの意味

長くなってしまったが、この記事のまとめとして、ラストシーンについて考察して終わろうと思う。

ラストシーン、韓国で過ごすみさきの姿が映る。
買い物を終え、みさきが戻る車は家福が乗っていた赤いサーブだ。

そうか、家福は。家福はもう、
自分自身を守ってくれる車がなくても、生きていけるようになったのだ。
自分自身を受け入れ、他者から傷つけられる正しさを知ったから。

みさきの顔に傷がない。
それでも、痛みを忘れたわけではない。
傷が消えても、忘れはしないことに気づけたのではないか。

運転をするみさきが初めて笑顔を見せる。
仕事ではない、ドライブを楽しむみさき。

この映画が、私にとってかけがえのない一作となった瞬間だった。

最後、駆け足の語りになってしまいました。
すみません。
まだまだ語りきれていないことが多いので、続きを別の記事で書くかも。

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