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川と海の境目で。 - マヤ暦「赤い地球」のストーリー

ベッドの上で、私の両目が同時に開いた。

今日1番はじめに目に映った色は、茶色だった。

朝起きた瞬間、顔がどちらに向いているかで、今日最初の色が決まる。

上を向いていたら、部屋の天井の白色。

下を向いていたら、枕の布地のベージュ色。

左を向いていたら、窓の空にひろがる水色。

そして右を向いていたら、壁につり下げているコルクボードの茶色。そしてそこには大好きな人たちと撮った写真がたくさん貼られているので、私は右を向いて目覚めるのが1番好きだ。

朝起きた瞬間、家族や今まで出会ってきた友達や仲間の顔を見ると、お腹の底に何か温かいものを感じるのと同時に、そこから湧き上がってくる力強い「何か」を感じた。

その「何か」は、布団の中から外へ出るために、必要な力のような気がする。

今日みたいに何の予定もない1日は、特にそうだ。どれだけでもそこに居続けられるほどにフワフワで温かくて心地のよい布団の中から抜け出すのには、かなりのエネルギーが必要だから。

でも今日私がはじめに見た色は茶色だった。

力強い「何か」に背中を押されて、私は体を起こし、えいっ!と布団をはいで、キッチンに向かった。

小さな鍋に水を注いで、火をつけてお湯を沸かす。その間に、まな板の上で白ネギをトントントンと切る。水が沸騰したら、だしを入れて、白ネギを入れて、乾燥したわかめを入れる。乾燥したわかめがフワッと水分を含んで広がっていく様子を見るのが好きだ。火を止めて、味噌をといで、できあがったそれを器に注ぐ。朝炊きあがるようにセットしてあった白ごはんをお茶碗によそって、冷蔵庫をあけて納豆を1パックつかむ。

お盆の上に、できたての味噌汁と白ごはんと納豆とお箸をのせて、テーブルまで運ぶ。「いただきます」と手を合わせてから、私は朝ごはんを食べはじめた。

今日はなにをしようか。

今日はどこに行こうか。

朝ごはんを食べながら、何もない1日の余白を感じる時間が好きだ。もちろん家にいてもいい。どこかに行ってもいい。それを自分で選べることがうれしい。

そんな中、私の携帯電話が振動した。親友のハナだった。

「サキ、今日ひま? お昼ごはん一緒に食べない?」

「いいよ。天気もいいし、12時にいつものところで」

ハナからの電話で、何もなかった1日が動き出した。自分で何もかも決める1日も好きだけれど、予想していなかったことがポコッと余白に入ってくる瞬間も好きだな、と思った。

制服姿のハナと私が、これ以上笑えないくらいの顔をしてピースをしている写真がふと目に入って、顔がふわっとゆるんだ。

コルクボードに貼ってある写真の中には、ハナがたくさんいる。


11時半をすぎて、私は家を出て自転車に乗った。

私の自転車は赤色だ。この赤色の自転車は、高校1年生の頃から乗っている。ちょうどハナと出会った頃だ。

ハナとは高校1年生のクラスが同じになってからずっとつるんでいる。高校生の頃は毎日毎日この赤色の自転車に乗って過ごしていたし、今でもハナと会うときはいつもこの自転車に乗っている。

自転車で10分くらい走ると、土手が見えてきた。その手前にあるパン屋さんの前まで来ると、青色の自転車が止まっていた。ハナの自転車だ。ハナも私と同じように、いつもこの青色の自転車に乗っている。

私と、赤色の自転車。

ハナと、青色の自転車。

私とハナと赤色と青色の自転車は、同じ年月を共に過ごしている。

青色の自転車の隣に赤色の自転車を止めて、店の中に入った。

「よっ!」

店の中にはすでにハナがいて、私に笑いかけた。ハナが持っているトレーの上には、いつも通りにカレーパンとクリームパンが置かれている。

私もトレーとトングを手に持ち、いつも通りにホットドックとメロンパンを選び、レジに並んだ。

私たちは店を出て、赤色と青色の自転車に乗って土手の方へ向かう。自転車を止めて、歩いて土手を降り、高架下まで歩いた。

ヒヤッとするコンクリートの上に並んで座り、川を見ながらさっき買ったパンを食べはじめた。

ハナはいつも通り、私の右側に座っている。

「いつも通り」ほど、安心でホッとして心地よいことはない。

いつもの自転車で、いつもの道を走り、いつものパン屋さんでいつも通り待ち合わせて、いつもと同じパンを買い、いつもと同じ場所に自転車を止めて、いつもと同じ場所に並んで座る。いつもと同じ川を眺めながら、いつも通り私はホットドックから食べ始めて、ハナはカレーパンから食べ始める。そしていつも通り、他愛のないことからディープなことまで、永遠に尽きないおしゃべりの沼にどっぷり浸かる。

私1人だけの「いつも通り」はやがて退屈になってくるけれど、2人で積み上げてきた「いつも通り」はいつまでも守りたいなと思うほどに愛おしい。

でも今眺めている川のように、いつも変わらず同じに見えても、実は一瞬として同じ瞬間なんてないんだと私はちゃんと知っている。実際に、高校生の頃に眺めていたこの川の水はもうここには流れていない。

私とハナだって、もうあの頃の私とハナではない。細胞はこの瞬間もじわじわと入れ替わっている。顔だって、体だって、心だって、ずっと同じように見えたとしても、ずっと同じではいられない。

でも「いつも通り」を築きあげるくらいまでに一緒に年月を過ごした私たちには、切っても切れない「絆」がある。

変化していくものばかりの中でも、1度築いた「絆」だけは変化しないものなんだと、私は信じている。いや、ただ信じたいだけかもしれないけれど。

でも、絆までもが変化するものだと信じてしまったら、私の戻る場所がグラグラして、私自身もグラグラしてしまうような気がしたから。

「ねぇ、またバンド始めない? 私はギターをやるよ。サキは歌って。別にプロを目指したいわけじゃないよ。意味のない、ただ楽しいだけのことをしたいの」

ハナが唐突に言った。私とハナは大学も同じで、当時軽音楽部に入ってバンドを組んでいた。私がボーカルで、ハナがギター、あとアスカという女の子がドラム、ミチルという女の子がキーボードだった。あの頃を思い出すとすべてがキラキラまぶしくて、今の自分が昔の自分に嫉妬してしまいそうになる。

「やりたいけどね。アスカとミチル、どうしてるかな。あの2人のことだから、きっとバリバリ働いてるだろうな」

私の口から「アスカとミチル」という名前が出てきた瞬間、隣に座るハルカの全身がギュッと固くなったような気がした。

卒業ライブが終わったあと、4人でいつもの居酒屋で打ち上げをした。ライブの余韻でハイになっていて、お酒もまわり、4人ともがまちがいなく「本音」だった。

「社会人になってもバンド続けようね!」

ハナは私たちに向かってそう言った。私たち全員がこれからもバンドを続けていきたいと思っていると全く疑っていない、サラリとした言い方だった。

ハナの言葉を聞いて、向かいに座っていたアスカとミチルが顔を見合わせて笑った。

「私たち社会人になるんだよ。バンドやってる暇なんてないでしょ」

アスカは憧れの企業への就職が決まっていたし、ミチルもブライダルプランナーとして式場への就職が決まっていた。新しい生活が来年の春からはじまる。希望に満ちている未来に向けて、まっさらな状態で挑みたいという気持ちだったんだと思う。やりたいことや身を置きたい場所が明確だった2人はなおさらに。

逆に私とハナは、それらが明確じゃなかった。来年の春からは、なんとなく面接を受けた中で採用してくれた企業で働く予定になっている。

「そっか」

ハナの顔があきらかに曇った。それに引きかえ、アスカとミチルの顔は希望にあふれてキラキラ光っているように見えた。

アスカとミチル、私とハナ。大学卒業を控え、2人と2人の間に見えない壁のようなものができていくのを感じた。大学卒業後も何度か4人で集まったりしたけれど、仕事にやりがいを感じるアスカとミチルが、私たち2人にはまぶしすぎた。距離はどんどん開いていって、今では4人で集まることはなくなってしまった。

「わっ!」

ハナの声が聞こえるのとほとんど同時に、ビュンっと強い風がふいた。

ハナのかぶっていた麦わら帽子が、フワッと川の水面に落ちるのが目に入った。そして麦わら帽子は、左から右へと流れる川に乗って、プカリプカリと進みはじめてしまった。

「お気に入りの帽子なのに。ほんと最近ツイてなーい」

以前にも見たことのあるような、ハナの曇った顔が目に入ったとき、私の足はとっさに自転車の方に向かっていた。

「追いかけよう! お気に入りの帽子なんでしょ?」

私が赤色の自転車にまたがってペダルをこぎ出すと、ハナもつられて青色の自転車にまたがってペダルをこぎ出した。

川と同じスピードで流されていく麦わら帽子を見失わないように、グッと目に力を入れる。麦わら帽子が流れるスピードについていけるように、ペダルをこぐ足にもグッと力が入る。

川と、麦わら帽子と、私たちと、私たちの自転車は今、同じスピードで流れていく。

この流れはいつまで続くのか。どこで終わるのか。果たして麦わら帽子は戻ってくるのか。ハナはもう一度麦わら帽子をかぶることができるのか。

そんなことは全然わからなかったけれど、私たちは全身に風を感じながら、一生懸命足を動かした。

「待て〜! このやろう〜!」

流されていく麦わら帽子を取り戻すことを、その瞬間はあきらめていたハナが、いつのまにか力強くそう叫んでいるのを聞いたとき、なんでかわからないけれど私はうれしかった。

「待て〜! このやろう〜!」

私もハナに続いてそう叫ぶと、ハナがアハハと空の方を見上げて笑ったので、私もつられて空の方を見上げてアハハと笑った。

風のいたずらで、大事な麦わら帽子が川に落ちてしまった。取り戻せるか取り戻せないかわからないまま、自転車で必死に追いかけている私たち。この不運と思われる状況の中で、私たちはどうしてこんなに笑っているんだろう。それどころか、なんだか久しぶりに喉からじゃなくて、お腹の底から笑っているような気さえした。

川の幅が広がってきて、流れが心なしかゆっくりになってきた。麦わら帽子は川の真ん中をプカプカのんきに流れている。なにかのタイミングで川岸まで流れてきてくれるのを信じて、麦わら帽子の速さに合わせて赤色と青色の自転車も流れ続ける。

「ねぇ。1時間後には私、麦わら帽子をかぶっているかなぁ?」

「わかんない。でもさ、なんか楽しい」

私がニコッと笑うと、ハナもニコッと笑った。

「ねぇ、サキ? このままずっとずっと川沿いを進んでいったら、海に着くのかなぁ? 私、海が見たいかも。麦わら帽子を追いかけるついでに、海まで行けちゃったりしないかなぁ?」

「わかんない。でもさ、行けるところまで行ってみようよ」

私はハナの方を見て、ニヤッと笑った。


どのくらい流されたのだろうか。

空がやわらかなオレンジ色に染まっている。

遠くの方にぼんやりと海が見えてきた。

麦わら帽子は見失ってはいないものの、かなり遠くの方に見える。

今やもう、麦わら帽子を追いかけているのか、海を目指しているのか、二人ともわからなくなっていた。

もうすぐ海に着くだろうというとき、川辺に並んでいるベンチに2人の女の子が座っているのが見えた。

顔ははっきりと見えないくらいの距離だったけれど、私はその女の子たちがなぜか気になって気になって仕方がなかった。自転車が近づいていけばいくほど、彼女たちの輪郭がはっきりとくっきりと見えてきて、ようやくその意味がわかった。

アスカとミチルだった。

私とハナは、ベンチの目の前でペダルをこぐのをやめた。おしゃべりに夢中だったアスカとミチルがようやく私たちに気づいた。

「うわ〜! こんなところで何してるの!? てか、久しぶりだ〜!!」

目を見開いて興奮気味のアスカが、そう言いながら私たち2人のところにかけよってきた。そのあとミチルも走ってきて、私たち4人は再会を喜んだ。

そのあと私たちは、4人で会っていなかった期間を埋めるかのように、時間を忘れて話し続けた。それぞれの近況からはじまり、大学時代の思い出話に花を咲かせた。

「アスカとミチルは、よくここに来るの?」

ひとしきりしゃべったあと、私はアスカとミチルに尋ねた。

「仕事が忙しくて疲れちゃったときね、いつもここに来たくなって、頻繁にお互い誘い合ってここでのんびり過ごしているの。私もミチルも大学を卒業してから、本当にがむしゃらに働いてきたんだ。お互い仕事にやりがいも感じてる。でもたまに無性に今の場所から離れたくなるときがあるの。恵まれた環境でやりがいを感じる仕事をしているのに何でだろうね。でも、適当に食べ物やお酒を買って、楽な格好で、時間を気にせずダラダラおしゃべりをするこの時間が、たまらなく豊かなような気がして仕方がない」

アスカは川を眺めながら、つぶやいた。

「川と海の境目」

ミチルが急に言葉を発した。

「ここはね、ちょうど川と海の境目なんだと思うの。塩辛い海水と、塩辛くない淡水が混じり合っているところ。汽水って言うらしいんだけど。私は普段仕事のことばかり考えていてね。やりがいもあるし毎日刺激にあふれてるから、それはそれで楽しいんだけど。そのしょっぱさに飽きてしまうときがあるの。海はどこまで行っても海でしょ? 川みたいに、しょっぱくなくても留まることができなくても、のんびりと何も考えずに、どこにたどり着くかもわからないまま、流されるように過ごしたいなって思うときがある。かといって、ずっと川みたいでありたいわけではないの。川にも行ける、海にも行ける、ちょうどこの川と海の境目くらいのバランスで生きられたらいいのになって、このベンチに座りながらいつも思ってる」

いつも聞き役で言葉の少ないミチルが、めずらしくたくさんしゃべった。

「え? いつもそんなことを思いながら、私の隣でここに座っていたの? 深い! 深すぎる!」

アスカが目を丸くしてそんなことを言ったから、私たちはゲラゲラ笑った。

「それじゃあさ、サキとハナは川だよね。私とミチルは海だよね。そんな4人が川と海の境目で集まるって、なんか最高じゃない?」

アスカが無邪気に、でもミチルに続いてなかなか奥深いことを言った。

1度離れた川たちと海たちが、またこの境目で出会って、また何かがはじまろうとしている。

「ねぇ!」

ハナが急に大きい声を出したので、私とアスカとミチルは一斉にハナの方に目を向けた。

「またバンド始めない? あの頃みたいにさ。別にプロを目指したいわけじゃないよ」

ハナは今日の昼、私に向かって言ったのと同じセリフを、次は私とアスカとミチルにむかって投げかけた。

一瞬沈黙が訪れたあと、アスカが口を開いた。

「いいね、やろうよ! ちょうどさ、意味のない、ただ楽しいだけのことをしたい気分だったんだ」

アスカがそう言うと、ミチルもニコッとうなづいた。

またここで会う約束をして、私たちは別れた。私とハナはまた赤色と青色の自転車に乗って、今度は川の流れに逆らって、流されてきた道を戻っていく。

太陽はほとんど沈んでしまっていた。

そして、麦わら帽子のことなんてすっかり忘れてしまっていた。

夜の香りのする風が、私とハナの背中を押すかのようにして吹いている。ハナの麦わら帽子を吹き飛ばした風とはちがう匂いがしたけれど、今日の風はきっと私たちを応援してくれている。そんなふうに感じた。

家に帰ると夜の9時をまわっていた。

私は、小さな鍋に水を注いで、火をつけてお湯を沸かす。その間に、まな板の上で白ネギをトントントンと切る。水が沸騰したら、だしを入れて、白ネギを入れて、乾燥したわかめを入れる。乾燥したわかめがフワッと水分を含んで広がっていく様子を見るのが好きだ。火を止めて、味噌をといで、できあがったそれを器に注ぐ。冷凍してあった白ごはんをチンしてお茶碗に入れて、冷蔵庫をあけて卵を1個つかむ。

お盆の上に、できたての味噌汁と白ごはんと卵とお箸をのせて、テーブルまで運ぶ。「いただきます」と手を合わせてから、私は夜ごはんを食べはじめた。

湯気のあがるご飯の上に、パカッと卵を割って落とした。

真っ白なご飯と、まっ黄色でまんまるな黄身。

最近これといって何もやりたいことがなかった真っ白な私の心に、何かパッと明るいものが今日生まれた。

軽くまぜてなじませて、卵かけご飯を口に入れると、いつもの何倍もおいしい気がした。

シンとした部屋の真ん中で夜ごはんを食べていると、ふとコルクボードが目に入った。

私とハナとアスカとミチルが、これ以上くっつけないくらいにギュッとくっついてピースをしている写真が浮き上がってくるように見える。

アスカのたたく力強いドラムのリズムが、ミチルの弾くやわらかいキーボードの音が、ハナのはじく刺激的なギターの音が、

私の腹の底で響きはじめた。

今日の朝、こんな気持ちでこの場所に戻るなんて、こんな気持ちで夜を過ごすなんて、想像もつかなかった。

これからどんな楽しいことが待っているのか、どんなしょっぱいことが待っているのか、あるいは、どんな苦しいことが待っているのか、だれにもさっぱりわからない。

でもときには川のように、ときには海のように、流されたり、たどり着いたり、流れに逆らってみたり、留まろうとしてみたりしながら、今やりたいようにやってみよう。今楽しいことを一生懸命やってみよう。

どっしりとした気持ちと、どこにでも行けるような軽くて自由な気持ちが混じり合っていた。

川と海の境目。

そう言ったミチルの声がやわらかく耳に響いたような気がして、胸の真ん中がじんわりと温かくなるのを感じた。


▼作者「もよもよ」さんのnote▼

▼マヤ暦「赤い地球」の特徴▼


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