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腹を立てるのは悪いことじゃないよね?

アンガーマネジメントについて学ぶ中で考えたことを書き残しておきたいと思う。

まず、アンガーマネジメントを学ぶ上で何よりも大事だと思ったのは、怒りというのは感じてはいけないものではない、ということだ。

怒るという感情は、喜怒哀楽の中でも、とかくネガティブに捉えられがちだし、忌避されがちだ。けれども、そもそも感情に良し悪しなどなく「ただそこに在る」もので、辛いとか悲しいという気持ちは消せない。

怒りを感じるのが悪いのではなくて、怒りを、他人や物にぶつけるのがいけないのだ。
怒りという感情をどう使うかが問題なのであって、怒りを感じてしまう自分が悪いのではない。

アメリカでは、怒りの出し方に問題がある人が多い為に、アンガーマネジメントが盛んになったのだと、以前メンタルクリニックのリワーク(復職支援)で学んだ。改めてネットで調べてみると、アメリカでは、ロードレイジ(日本で言う、あおり運転などのこと)が社会問題化する中で、アンガーマネジメントが注目を浴びたようだ。

一方で、日本では感情自体を抑えることが良しとされていないだろうか。怒らないとか、怒りを感じない、というのはどういうことか。それは、自分の大切な存在を守れない、ということなのではないか。

自分が傷つけられた時、大切な誰かが傷つけられた時、そういう時に怒らなかったら、その人の心は、ただ傷つけられるがままになってしまう。
そういう意味で、下記の文章は、まさに核心をついていると思う。

“表現の中で「これは軽視では…?」と感じてしまうと、心に黒いモヤモヤが浮かんできて、誰かを傷付けていないかどうか考えるようになった。作品や作者に非があるわけではない。私を含めた「誰かの痛みに鈍感になってしまった人たち」が、そうならざるを得なかった過程が1番の悪なのだと思う。 「差別をする」という言葉はあくまで動詞であって、その人の代名詞ではない。だから例えば貴方が差別をしていて、それに気が付いたり誰かに指摘された時に、自分自身を守る必要なんてない。貴方の人格を全て否定しているわけではないから、ただ「誰かが嫌がる行為」を止めればいいだけなのだ。”

私は、自分の気が付かないところで誰かが傷ついているかもしれないということを、忘れずにいたい。「傷つけられた」という声に、真摯に向き合いたいと思う。

私自身、これまで、相手の気持ちを考えられずに、散々他人を傷つけてきたから。一方で散々、他人に傷つけられもしてきたから。だから、人の痛みに鈍感でない自分でいたい。

今こうして文章を綴っているものの、こうやって何かを発するということは、誰かを傷つけ得ることでもある。それでも、私は文章を綴らずにはいられない。止むに止まれぬ欲求。その代償として、誰かに嫌われようとも、誰かが離れていこうとも、自分は自分の守るべき1線を守る為に、書いて伝えていきたいと思う。

表に出さなければ、伝わらない。書かなければ、伝わらない。伝えなければ、伝わらない。変えたければ、自分から変わらなければ。変えたければ、自分で動かなければ。

女を好きになる女は「ネタ」でも「架空」でもなく、生きている人間としてここにいる、と示す為に。(元レズビアン自認)
性別関係なく、その人自身が好きと感じる人間が、ここにいるんだ、と示す為に。(現パンロマンティック)
他者を性的に欲さない人間が、ここにいるんだ、と示すために。(アセクシャル、デミセクシャル)

それと同じように、恋愛感情が分からないと感じる人も、恋愛感情に重きを置かない人も、生まれた時の身体の形と自分が認識している性別が合わない人も、これまで「いないことにされていた」だけで、ずっと、同じ社会に生きている。

自分が好きになって一緒に生きていきたいと思った相手は、社会的に認められないのだと、あらかじめ分かっている社会で生き続けることが、どれほど辛いことか。どれほど無力感を覚えることか。

当事者からも、結婚なんか法律なんか出来なくていいから、ただそっとしておいてくれ、と声があがるのは何故か。存在が明るみになり、話題にあがる度に、酷い言葉がぶつけられるからだ。傷つけられるくらいなら、そっとしておいて欲しいという気持ちは、よく分かる。

でも、私は、今の状況を放置するわけにはいかない。異性愛者からすれば、同性なんか好きになるからいけないんだ、と思うかもしれないが、それは、いじめられる方にも落ち度があるという考え方と何が違うのか。いじめは、いじめるほうが悪いと決まってるのに。

ただ生きているだけなのに、セクシャリティはその人の一部分でしかないのに、その属性を持っているが故に、生産性がないだの、気持ち悪いだの、おかしいだの、面倒だの、なぜ言われなくてはならないのか。それこそが「おかしいこと」でなくて、何なのか。

子供を産まなくても、働けなくても、健康でなくても、障害や病気があっても、もちろん逆に健康であっても、生きていて良い。それが「人権」という考え方。
もし、生きて悪い人がいるという考え方を採用してしまったら、いつか自分が生きていて悪い存在に、なりはしまいか。ただ生きているだけで良しということにしておかないと、例えば働けなくなったら、子供を産めなくなったら、用無しということに、なりはしないか。「姥捨て山」のお話が、ただの昔話だとは、言えなくなってしまう。


教室の隅で、ひっそりと本を読んで、障害者と笑われて、黙って傷つけられるがままになっていた私は、もういない。

「バイキン扱いされたら人は傷つく。人と違う歩き方を馬鹿にされたら人は傷つく。自分の顔を見ただけで誰かに顔をしかめられたら人は傷つく。」

そう口に出して言い返せなかった過去の自分のような未来の誰かの為に、一人の大人として、何かがしたいと願っている。それは、これからの自分にとって、生きやすい社会を作ることにも繋がるはずだと思う。

「過去の自分は救えなくても、未来の子どもたちの力になりたい」

https://www.asahi.com/sp/articles/ASR523TJPR4GUTNB019.html?iref=sp_ss_date_article&s=06 


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