見出し画像

ナナへ愛を込めて

ナナ(仮名)と出会ったのは18歳のときだった。ピーターパンに出てくる犬、Nanaに似ているのでここではそう呼ぶことにした。
小麦色の扇のような尻尾をパタパタさせて挨拶をしに来た愛らしい姿をまだ鮮明に覚えている。

ナナは当時の大家さんが飼っていた犬だ。面倒くさがりで寂しがりやな、ゴールデンレトリバーの女の子。手は微かに炒った豆の匂いがして、お耳はちょっと臭い。でもとっても優しい匂い。炭治郎ならブラジルからでも嗅ぎつけるんじゃないだろうか。
言うことはあまり聞かなかったけれど、大嫌いな掃除機からいつも私を守ってくれた。そんな毛むくじゃらのお姉さんだ。

大学生のとき、忙しい飼い主に代わり、私はよくナナと散歩に行っていた。最初こそ不安気な顔をしていたが、打ち解けるまでにそう時間はかからなかった。二人きりで何時間も公園にいたことも多々ある。

私がいちばん辛いときに隣にいたのはナナだ。仕事を辞め、通院だけでも精一杯の私に「元気な日にはぜひ散歩に行ってあげて」と大家さんが提案してくれたからだ。夕方ナナを迎えに行って、夕ご飯までに帰ってくる。そんな日々がしばらく続いた。

不思議なことに、ナナと一緒なら安心して歩くことができた。めまいで足元は覚束ない、息苦しくて力も入らない。どこかで倒れたらどうしようという不安。親や気心知れた人といるときですら常に自分の体調を心配していて、ぴたりと後ろを付けてくるような得体の知れない恐怖に怯えて過ごしていたのに、ナナと二人で歩くときだけは自然に呼吸ができていた。夕陽に胸がじんとしたり、草木の匂いに季節を感じたりする心の余裕があった。病んだ私に唯一安らぎを与えてくれたのはナナだった。

散歩中には他の飼い主さんや犬好きの人が話しかけてくれる。一時的ではあるが他者との会話が孤独感を薄めてくれ、社会から距離を置いた私に少しばかり自信を与えてくれた。二人でいるときだけは胸を張って歩けた。

だからといってその時だけは不調から解放されるなんてことはなく、訳のわからないタイミングでどうにも苦しくなってしまうこともあった。それでも、誰もいないドッグランのベンチで向かい合うナナに抱きついているとなんだか大丈夫な気がした。何か起きてもナナが守ってくれると本気で信じていた。

ナナを通して大家さん一家ともより仲良くなり、食事をしたり遊びに行ったりするうちに、少しずつではあるが体力が戻ってきた。
ナナとの交流は抗うつ剤や向精神薬よりずっと効果的だった。当時はとても救われた。

そんな彼女ももう旅立って二年経つ。もらった写真の一枚は冷蔵庫に貼ってあって、その柔らかな笑顔に受け取った優しさを思い出す。

病気になってから人の優しさに助けられ、同時に傷つけられた。こんな人生に愛着は持てないが、どの出来事も無駄ではなかったと今は思う。ここまで持ち直せたのは他でもないナナのおかげである。ありがとう。ずっと大好き。

犬は人間にとって最高の友人。まっすぐな愛情で頑なになった心を溶かしてくれる。
だからその無垢な存在を蔑ろにする人が許せない。猛暑のアスファルトを歩かせる飼い主。自分は日傘にサングラス、ラッシュガードの重装備。
自転車で犬を走らせる飼い主。犬が運動を必要としているならいいが、たまには振り返って。あなたの犬、ゼェゼェ息を切らして引きずられてますよ。自分は自転車で楽だから気づかないだろうけど、それじゃ江戸中引廻だよ。どういうつもり?

そんな人たちを見るたびに、存在を忘れていた私の人間嫌いがむくむくと膨らんでいく。自分を含めた全人類が憎らしくなってくる。
それを自覚したらナナを思い出す。子犬のときに捨てられ、分離不安のトラウマに苦しみながらも人間を諦めず、家族でもない私にも無償の愛をくれた彼女を。

私を救ってくれた純粋さと強さ。
悲しいことに私にはもうあまり残っていない気もするが、すこしずつ育てていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?