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この子はなかなかひねくれていて。

書き連ねたnoteを眺めていて、よくまあ毎日これだけ書いたなぁと我ながら思う。
まだ毎日更新は60日ちょっとだけれども、文章を書くなんておよそ縁のない人生だったから、それなりに努力しないとできないことだとは思うし、やっぱり達成感はある。

ゆっくりと、一つひとつのnoteを見返す。

粗い。
くどい。
長い。
カッコつけすぎ。

たまーに。
たまーにだけど。
あ、なかなかいいこと言ってるかも。

とか。
そんなふうに、ひと言感想を添えて。

もちろんそのときの感情や考えにしたがって、正直に書いてきたということは自信をもって言える。
だから技術的な問題で拙い部分はあるかもしれないけれど、それ以外はおおむね、まぁ頑張ったなと認めてあげていいのかなと思っている。


一つひとつのnoteが自分の子どもみたいだと思う人もいると思うけれど、書いてきたものを眺めて、ぼくには自分のページそれ自体がひとりの子どものように思える。
積み重ねたnoteはそんな子どもの成長記録のような。
わが子を日々欠かさず写真に収めていくような。
ぼくには子どもがいないのでほんとうのところはわからないけれど、そんな気がしている。

そうしたら、この子は今いくつなんだろう。
依然として書くのに時間がかかる。
突然駄々をこねるようにピタッと手が止まるし、油断するとうまいこと言おうとするし。
まだまだ世話がやけるから、幼稚園児くらいかな。

この子はなかなかひねくれていて、当初書こうと思ったことがそのまま形になったことはほとんどない。
書いていくうち、話の中身が変わっていく。
真っ白な画面に頭のなかで描いた結末に素直に話が向かっていったことなんて、ほんとうに数えるほどで。

たとえば、向日葵をイメージして書いた昨日のnote『さあ、夏の扉を開けて』は、早咲きのキバナコスモスを見て書こうとしたものだった。
すこし前の『今日、あなたに会えたら』は、ぼくはじめじめしていて陰湿だから、まるで梅雨みたいですねということを最初はねちねち書いていた(お時間ありましたら読んでみていただけるとうれしいです)。

話しているときも、ぼくは集中力がないからあっちへこっちへ話が飛ぶ。
要点だけを、うまく話せない。
それを指摘されて、落ちる。
だから、とりとめのないことを好きなだけ書いていけるこの環境は、逆にぼくみたいなタイプの人間には合っているのかもしれない。

今日のこのnoteだって、最初はみんなにnoteのタイトルをどうやって決めているのかを聞こうと思って書きはじめたのに。
書くということを前に、当初の目的は簡単に忘れ去られる。
没頭しやすいんですと、ポジティブ変換できることかもしれないけれど。


ああ、もうすぐ40歳。
「不惑」なんて、あと40年くらい待ってほしいな。




今日もつらつらと書きつづけてしまいました。
何かのハウツーとか、ためになることとか、こころにグサッと刺さることとか、ほんとうは書きたいんですよ、ぼくも。
でもこうして真っ白な画面を自分の書いた文字で埋めていくというのは、何というか、ほんとうに「出す」という行為なのだなぁと思います。

思いや考えのほかに、きっと、ストレスだったり、自分のなかの何か澱んだものだったり、ネガティブなものも出ていっている。
それをみんなに押し付けちゃいましょうということではなくて、デトックスみたいな意味合いで。
そんなふうにして軽くなったら、あとはみんなのお店に遊びに行くのに街へと繰りだすんだ。


今日もお疲れさま。
最近どうですか。
ぼちぼちでんな。


うん。
それが楽しい。


今日も、穏やかな夜になりますように。







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