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見えないところで回るもの

割に合わない、と思っている。いつも。

二人暮らしを始めて、一年が経った。私にとって、血の繋がらない他人と暮らすのは初めてのことだ。きちんと、他人と暮らすということが。

大学時代に一人暮らしの四年間を経て、私は自分一人に関する暮らしについてはよくわかっていた。簡単に言うと、何もしない。最低限のこと以外には手すらつけない。そういう地を這う生き物のような生活を、他の大学生と同じように私もやっていた。

料理は苦手だ。洗濯物を畳むのも下手くそだし、掃除は一度凝りだしたら止まらないけれどやりだすまでにとんでもなく時間がかかる。ひどいときには、お風呂の排水溝が湧き水状態になる。

自分一人ならそれでいい。だって全て自己責任なのだから。だけど、人と暮らすとなったらそうはいかない。私は私の自堕落さをわかっているからこそ、それなりの覚悟を持って二人の家にやってきた。


「家事なんか、やれるときにやりゃいいよ」
私たちは家事分担をしなかった。気がついた方、あるいは余裕のある方が家事をやる。我が家の家事は、いたって大雑把に回っている。

ただ一つ、私が社会人1年目だからと、毎日の夕飯の支度は恋人がしてくれることになった(恋人も料理はほとんど初めてなのに!)。慣れない生活を始める私に負担をかけないためとはいえ、同じく慣れない料理を覚えてくれた恋人には頭が上がらない。
その代わり、週に何度かの洗濯と掃除は極力私がやるようにしてきた。あとは料理をしてもらう代わりに洗い物をする、とか。だけどまだ、割に合わない。なんだか割に合わないのだ、ものすごく。


恋人と暮らしていると、“見えない家事”の存在がはっきりと見えてきた。炊事洗濯掃除と一言で言える範囲の中に、細々とした仕事はいくらでも隠れている。
不足した洗剤の補充、飼い猫の水飲み場の水の交換、散らかった本を本棚に片付けること、毎日水周りを磨くこと。農家の大袋から米びつにお米を移し替える作業。

大まかなやるべきことだけを片付けるだけでは、二人の快適な生活を維持するのは難しい。しかも気がつくことだけじゃなくて、気が利くことが大事なのだ。普段なんとなくで暮らしていると、なんとなく漂う不快感から何をすべきなのか、にまでたどり着けずに終わってしまう。

恋人はよく気がつく人で、私は鈍感な方なんだと思う。はっとしたときには恋人はもう動き出している。家中の細やかな快適さが保たれているのは、恋人のおかげだ。私はせいぜい、以前恋人がやっていたことを後から真似ることくらいしかできない。
私の中にある割に合わない感じは、そういうところから来ている。なんだかふと、申し訳なくなるのだ。

だけど私は、家事に関する不平不満を浴びせられたことがほとんどない。だからこそ、私はもっと頑張らねば、割に合わないところから少しでも割に合うように動かなければ、と前向きに思える。
腹の底で思っていることをあえて言わないのも、ある意味で共同生活のコツだ。私も思うことはあるし、それなら相手は尚更そうだろう。ただわざわざ言うほどじゃなくて、むしろ言ったら余計な衝突を生むだけのことだから言わないでおくだけ。

これは逃げじゃない、お互いに歩み寄っているからこそできることだと、私は思う。その証拠に、いざとなったら私たちは言うべきことは言って、話し合えるのだから。


結局、家事において必要なのは何をどう分担するかじゃなくて、相手をどれだけ思いやれるか、なんだと思う。そして均衡が崩れたとき、相手を責めるのか、話し合いができるのか。そこに全てがかかっている。

見えない家事と、見せない心の奥。当たり前のことかもしれないけれど、表に見えないところにこそ、生活の基盤はあると思う。相手のために、そして自分のためにある着実さと誠実さが、私たちの生活を支えている。


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