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創作にゴールとか、正解とか、あるわけないじゃないですか。

私、一体何になりたいんだろうなあ。
書いていると、ふとそんな思いに耽けることがたまにある。

あれはちょうど3年前。就活を目前に控えてようやく、何者でもない自分への焦りを感じてnoteを始めた。けれど1年、2年、と続けていくうちに、私の中では何者にもならなくていい、という結論で落ち着いたのが今年の初めの頃のこと。(詳しくはこちらで。「今年は身軽に生きていこうね」)


今年の創作大賞で、私の作品は中間選考を通過した。前回なんて箸にも棒にもかからなかったから、これは進歩と見てもいいのだろうか。それとも単に、noteならではの基準による運、みたいなものなのだろうか。

どちらにせよ応援してくれる人が存在したのは事実で、読んでくれたり、続きを楽しみにしてくれたり、感想をくれたりした人たちに私は本当に恵まれていた。(ありがとうございました)
ただ結果というものを見たときに過ぎった違和感は、心の奥底にしこりとして残るものだった。私は果たして、本当に“評価”されて選ばれたのだろうか。中間選考止まりがこんなこと言っても、しょうがないのかもしれないけど。

実際のところ私の実力ってどんなもんなんだろう、ということがずっと知りたかった。そのためにnoteを始めて、私の何倍も才能のある人が認められないまま消えていったり、あるいはその逆だったりするのを見届けてきて、ここが必ずしも純粋な実力のみで評価される世界ではないことがわかって、そもそも実力ってなんだろう、評価ってなんなんだろう、と考え出したらキリがなくなって、最後にはどうでもよくなった。


それなら、私はなぜ今も創作をしているのだろう。好きだからだろうか、それともただの執念、だろうか。そもそもが自己満足の行為に理由を見出すこと自体、野暮なのかもしれない。

ところが答えは案外、あっさりと浮かんできた。だって、過去の自分がしっかりと書き残してくれていたのだ。

私が書く理由。それは「私はここにいるよ」と伝えるため、だと思っています。

まずは1年、そしてこれからも。|皐月まう

そうか、そうだった。私はもっと切実に、素直な思いも抱いてここに書き記すことを決めたのだった。

私のいちばん最初の記事は、定番の自己紹介記事。なんの面白みもない記事だけど、あのとき私は「この世に私のいた証を残すんだ」という密かな決意を持って、最初に自分のことを書いた。それから記事を出すたびにぽつぽつと増える反応の一つひとつが、飛び上がるほど嬉しかった。

創作大賞を終えて最後の支えになったのは、読んでくれた人たちの言葉と反応だった。もちろん賞としての結果も大切だ。けれど私の「ここにいるよ」という声を聞いて返してもらえる、その喜びはただの結果だけでは得られない、熱を帯びた響きとして私の手に残っている。


何かを創り、世に出してしまえば欲が出るのは当たり前だ。承認欲求を抑え込もうとしたって難しくて、私はいつだってみんなに読んでほしいし、あわよくば認められたい。私がすごい人になれば全てがうまくいく。それだけを信じて書いていた時期がなかったと言えば、嘘になる。

でも、じゃあ、そうしたらなんになるの?なんのためにすごくなるの?その問いかけを忘れちゃいけないよな、と思う。
そこで気がつく。私が欲しいものは、決して表に掲げられるものだけじゃない。本当は一人でもいい、ただ誰かの心に見つけてほしくて、響き合いたいだけなのだ。それがなきゃ、何も始まらない。


noteを始めて、3年。書くことに関してはいろんなことを考えたし、考えすぎてやめたくなったこともあった。けれどこうして年に一度初心を思い返すと、忘れかけていた大事なものを取り戻せるような気がする。

私はまた、見えないゴールに向かって走り出す。結局私がどうなりたいのか、実のところは私にもわからない。ただ、わかるまでは書く。書き続ける。そして誰かに届けたいのだ、「ここにいるよ」という声を。そこには終わりなんてない。だってもしかしたら、残した灯火は永遠にだってなれるかもしれないのだから。


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