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別れはとっくに済ませてしまったから、おめでとう。

近所の土手を散歩していたら、菜の花が咲いていた。土手のほんの僅かな部分だから菜の花畑、とまでは言えないけれど、その一面だけは堂々たる春の装いをしている。ミツバチもたくさん蜜を吸いに来ていて、春を喜ぶのは人に限らないのだと密かに納得した。

慣れない道を覚える手っ取り早い方法は、歩くことだと思う。初めての土地に来てまだほんの数週間の私は、数歩先の近所の道すらあやふやだ。だからこうして、天気のいい日は散歩をする。
自転車や車では見逃してしまう一瞬の風景も、時速4kmでじっくりと眺めるだけで細かな印象が植えつけられる。一軒目のおうちにはカラフルな洗濯物が干してある、三軒目のおうちの犬には吠えられる。

今にも咲きそうな一本のソメイヨシノを見つけることができたのも、日々散歩に励んできた成果だろう。しかも車も通れない細道で見つけたのだから、ここは間違いなく穴場だ。


そういえば、私は卒業式に行かなかった。

春は出会いと別れの季節とよく言うけれど、私の中では“別れ”をとうに通り過ぎてしまっていた。そうなることがなんとなく予見できていたから袴を選びに行かなかったし、卒業式の出欠アンケートにははっきりと「欠」の文字を書いた。学位記を郵送してもらう手配も済ませた。私は私の中で、当分あの場所には帰らないだろう、とすでに確信を持っていた。

だって、自分の中できちんと区切りをつけたのにまたあの場所に戻ってしまったら、それこそ調子が狂いそうだったのだ。私はもう、別れの次の出会いに向けて動いていて、新たな生活に馴染むことだけに全精力を注いでいる。

惜しむべき人たちとの別れは充分惜しんだ。惜しんで惜しんで、惜しみきって、そして私はその全てを置いてこの地にやってきた。だから私の中ではちゃんと消化した上でここにいる。これが最後、と心に決めてしまったら、本当に最後にしてしまわないと私は落ち着かないのだ。

みんなに会いたくなかったわけじゃない。式の数日前には元バイト先の同期から、一緒に写真を撮ろうとDMが来ていた。私卒業式行かんのよ、と断るのはかなり辛かった。でも、だからといって再び何時間もかけてわざわざあの場所に出向くということが、帰るということが、どうしても今の私にはできる気がしなかった。

そういうのは20年後くらいに後悔するんだよ、と大人に言われた。確かにそうなのかもしれない。本当にこれっきり、一生会えなくなる人なんてたくさんいるだろう。
だからなんだ、と私は思う。あれっきり会えなくなった人はこれまでの二十余年ですら何十人も何百人もいて、そのことを悔やんだことは今のところほとんどない。通り過ぎていく人は通り過ぎていくし、残る人は残るべきときまで残るものなのだ。

卒業式は振り返るためのものではなく、これから前に進むための儀式だと思う。だとすれば、私は私の卒業式をちゃんと済ませている。
まあ、袴ぐらいは着てもよかったかなとは思うけれど、それとこれとは別の話だ。

だから今日も、私は私の菜の花を探すだけだ。みんな卒業おめでとう、という言葉は春の風に乗せて、数百km先まで飛ばしてしまおう。


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