坊主にされて分かった、身体は先に決めているということ。
最近言われることは減ってきたけれど、僕は基本的に、とても敏感な体質。HSP と言われたりもするが、他の人が感じないことを感じ取ってしまうことも多い。だからこそ、他の人が見えていないものを見ることができるし、結果として、仕事で信頼されることも多い。
そんな僕が最近わかってきたのは、いくら頭であれこれ考えても、結局意思決定はそれとは別のレイヤーで、身体が先にしてしまっている、ということ。
思考が先のようでいて、僕の場合は身体が先に決めていて、思考や知性にそれに追いつかせることしかできない。過去10年位の大事な意思決定は、少なくともすべてそうだった。
震災直後に東北に向かったのも、東北を出たのも、アーティストになったのも、先に身体が決めていた。すべて直感としかいいようがない。僕は話し方から賢そうに見られることも多いけれど、人生の流れを聞くと賢さなんて全く存在せず、賢ぶりながら、直感と衝動で生きている人間に過ぎない。
こんなことを書いたのは、2週間ほど前に、「生命が美しいとしたら、それは何故か、展」という展示で、完全即興的なパフォーマンス作品を行った結果、身体が変わってしまったことに気がついたからだ。
身体的にも、坊主になった。パフォーマーの方に、流れはすべて任せますといったら、「バリカンで頭剃りたい」と狂った事言われ、本当に身を委ねたら、坊主にされた。もしかすると、生まれて35年、一番髪が短いかもしれない。
実際に身体的にも見た目が大きく変わったが、見た目の変化は本質ではなく、身体感覚が変わったことに本質がある。ただどう変わったかは分からない。変わったことだけがわかる。
これまでの経験から言うと、周りの現実や環境を、身体変化にあわせるのに1年位かかる。終わったあと、数日間の身体感覚が、とにかく凄かった。実際、久々にあった人には、「目」がぜんぜん違う、と言われた。
言葉ではうまく表現できないけれど。こういうフェーズでは、身体が、思考で考えていなかったようなことをしでかす。さて、これから何を体験できるのだろう。とても不安であり、同時にとても楽しみでもある。
作品名:かみとことば
Credit:
- place : nigebar
- performance : Yuki Oshida / Kosuke Matsushima
- music : Yuu Amemiya
- photo : Nakamura Wahei
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「芸術家として生きる」と決めてからの日々
芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…
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