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色とりどりの傘

世の中には、様々な形や色の傘がある。
小さい傘や大きい傘、持ち運びやすい折り畳み傘やでデザイン性が高い傘。
骨の本数が変わるだけで印象も一変する。

僕が小学生の頃は、なんとなく大きい傘がかっこいいと思っていた。単純にそのほうが濡れないし、優れている。
その後、自分の体のサイズにあった傘がよいのではと考え始める。傘をさしているときの見た目などどうでもいいのだけれど、どうしても気になった。

ビニール傘はよくコンビニなどに忘れられる。傘としての機能は十分であるにも関わらず。これは多分、ビニール傘の価値が低いのではなくて、場当たり的にビニール傘を買うように人には、無計画で忙しく行動する人が多いからだろうと推測している。

結果だけ見れば、「ビニール傘は忘れてもいい、価値の低いものだ」と勘違いしている人もいるだろう。

毎日、車で20分ほどで通勤している。
入社してすぐの頃は大渋滞を避けるために、6:30には出勤していたが、最近は在宅勤務などの影響で緩和されているため8:30に間に合うように出勤している。

通勤途中には、また別の大渋滞をいつも見かける。
小学生の通学だ。

大人に見守られながら長い列を作って、小さな歩幅で歩いている。
小学校に行くことが憂鬱だった記憶はあまりない。単純に脳のデトックス機能で、悪い記憶が消されているだけかもしれないが、いつも楽しみだった。

この前長い行列を見かけたときは、ちょうど雨だった。

英語のリスニングをしながら、また水たまりを踏んで飛ばさないように注意を払いながら、運転していた。

その日の行列は、小学生みなが傘をしていて、とても色とりどり。
背丈に合わせて傘がかかげられている位置が違う。大きさも形も違う。

それらがそれぞれの個性を主張していて、多様性が象徴されているような気がした。
昨今使われる文脈とは違うかもしれないが、そこには未来が見えた。

目の前の歩道橋を、等間隔で間をあけて歩く姿も妙に印象的だ。

単純にノスタルジックになっただけかもしれない。自分がこれまでやりきれなかったこと、後悔したことの経験を正当化して、中和するために、過去を美化しているだけなのかもしれない。

思い出そうとしてもすぐには思い出せない。

小学生や中学生の時にも、何か後悔はあったはずだ。

変化のない日常に、突然現れる出来事。それが妙に印象に残ることがある。
それは上で書いたことだけでなく、これまでの人生でいくつかあった。

記憶に残るということは、感情が動いたということ。
そこには必ず理由がある。

自分を俯瞰して見ることは自己理解につながる。自分が感動したこと、うれしいこと、楽しいこと、退屈なことから、自分がどういう人間なのかを逆算できる。もし何か法則のような見えてみれば、今まで経験したことのないことに当てはめて、チャレンジしてみる。

これは人生の方向性を決めるうえでとても重要な行為だと、僕は考える。

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